2008年1月18日金曜日

翌朝 起きてもすることは なーーもなし!
 ふとんを リュックに詰め ダンボールを横の隙間に片付け
箒でちょこちょこっとはいておしまい

学校の横にある 社宅の水槽にある水を 配ると言うので 並んでもらいにいったり・・・・

そうそう 前の晩 10時頃だったと記憶していますが
外で 女の人の声が
なんでも 食料等の援助物資が 来たので どこかの部屋を 空ける様にいっています
もちろん 部屋の人は出て行こうとしません
その部屋から出て行けば 後行く所がないんですから

あとで判った事ですが その立ち退きを命じていたのは
 この小学校の 教頭でした
このおばちゃんは 又あとで出てきます

でも そのときの話書きたくないなぁ
 だって 私の本性丸出しだから
折角 今まで良い人ぶりっ子してたのにぃ・・・・

翌日 確かに たくさんの物資が届いていました
それを 配っていたので 私も手伝いましたが
そのときは まだ 中心になって指揮をする人がいなかったので
並ぶ人は 延々と続いているし・・・・・・
混乱のきわみでした

そんな時 一人のお年を召した女の人が
「こんなに 並んでいるんですね  私足が悪いから 無理ですわ」と 帰ろうとされるので その方を追いかけ 品物をお渡ししました
横にいた 若いニーチャンに変な顔されましたけど ね
「ふん! なんか文句あっか!!」の人ですから 私

皆さん おとなしく 受け取られるんですが 中には
「お前ら 偉そうにしたくて やってんのやろ!」と わめくおっさんが
「あほか 一銭になるわけやなし 第一みんな渡すのに忙しくて 自分たちは 何も口にしてないんだぞ」と 心で叫んでいました
 そのおっちゃん 向こうの方にいたから
私に言ったんなら 言い返していたかも・・・・・・・

手渡した物資は バナナ 牛乳 あと何があったかな?
そうそう 魚肉ソーセージ3本組 缶ジュース等でしたね

翌日くらいから リーダー役の人が 出てきてくれましたが

上の息子は 友達の安否確認等で 走り回り おしまいには どこか友達の家に泊めてもらい 夕方一度 顔を出すだけになりました
そのとき 頼んでおけば 何でも買った来てくれるので 我が家は 不自由な事は ありませんでした

震災の翌日から ビール飲んでました うちの旦那!

スポーツ系だった息子の友達は やはり ズータイのデカイ連中が多く 彼らが 隊列を組んで買い物をすると 周りの人は 引いたそうです
  あったりめーだろが!  
             でも 感謝!

その日か翌日だったかもしれませんが 主人の知り合いが 学校に避難している人たちに 名前等を書いてもらったものを 持って来ました
それを 主人と3人で 大きな紙に書き写し 学校のロビーに貼り出しました
このあたり 記憶が混乱しています
その名簿を 私 職員室に取りにいったような・・・・

名簿が 職員室の部屋の隅に 小さな箱に入れられ 放り出されているのを 覚えています
数が足りないので 職員室に聴きに行くと
「預かったのは 全て其処に入れてある」とそっけない返事をされましたねぇ

2日目の事かなぁ?
たまたま 校庭に出て行く 入り口に立ってると おじいさんが
「年寄りにも 仕事をさせないと ここにおりにくいやろ」と
つぶやいています
「おりにくいやろ? なんつーことをぬかすんじゃ このくそじじい!」
と わたくし上品に 思考をめぐらした事がありましたが
 そのじいさま 校長だったんです

そうと知っていたら 2~3発 殴っといたんですが 残念!

こういう 異常事態のとき 本当にその人の 人柄が出てくるものです

私の場合 いつもより ちょっと上品になっておりますが

こう言う校長に率いられた 学校は教師もひどいものだし 対応もひどいものです
これは おいおい出てくると思います

覚えているようでも 時間の経過が はっきりしません
話が前後して 読みにくくなるかもしれませんが ご容赦!


2日めに 大きな余震が・・・・
  学校中に 悲鳴が上がりました
私は 天井の蛍光灯が 落ちてこないか 見上げていました
 でも 蛍光灯は 天井にしっかり張り付いているタイプで
   落ちてくる事は ありませんでした

皆さんは 歩道橋が 揺れるのごぞんじですか?
 特に 下を大きな車が通ったりすると 揺れるんです
震災後 気づきました
    もちろんそれまででも 揺れていたんでしょうが
震災後は 揺れに非常に敏感になりました

3日目「キンデン」(電気工事の会社)の人が来て
  電気がつくようになりました

明るいと言う事が こんなにも 気持ちを落ち着かせるものかと 驚きました
電気で明るい生活 ありがたいものです

さて 避けて通れないのが 下ネタです
 そう トイレです

私の入っているのは 放送室
隣が校長室と職員室  反対側が保健室  向かいは給食室
給食室の隣に一部屋あり 次がトイレ
初日は そのトイレ 全員が使ってました  もちろん

しかし 学校側が教職員用トイレのみ使用停止にしたんです
 教職員用は使うなと言う事のようですね
このあたりの 詳しい事情は 知りませんが・・・・
トイレの外に 使用禁止の張り紙が
 その前に被災者の人たちが 掃除してましたねぇ

水の流れない水洗トイレ(ご想像に任せます)

個人宅でも 事情は一緒です

あるおうちで 傍を流れる川の水をトイレに利用していたんですって
川の水を 水のタンクに入れて 使用していると
しばらくして 水が出なくなりました
 ここで問題
どうして水が 出てこなくなったんでしょう

答え
タンクの中に 水草が はえたから
水の中に 水草の種でも混じっていたんだろうと言う事です

学校のトイレに戻ります
幸い プールに水があったので それを使って それまで使いっぱなしのトイレの掃除をしました
水はバケツリレーで運ぶんですよ

トイレの水は バケツに水を入れておき 大のときのみ使用

トイレを出てから 手を洗うと言う作業が こんなに大変なものとは
バケツを眺めて 一番きれいそうな水で 洗ったんですけれどねぇ
 まず 「きれい」の基準を どこにおくかですよ

トイレに行く途中に 御遺体安置室が ありました
  それがどうした  ですね
たとえ 夜に行く時でも
 カーテンの隙間から 部屋の中を 覗いた奴もいるんですから
えっ!誰かって?  わかってるくせに


学校の教師の中にも 良い人はいました
若い先生で 放送担当だった人です
電気が通じれば 放送設備が 使えます
使い方を こっそり?教えてくれました
その人は 教師になる前に 企業で働いていたと 聞いた様な気が

夜 我が家(放送室)に来て 話をした事がありますが
 自宅がつぶれ 親を車に乗せて 大阪だったかな
知り合いの家に 預けにいったそうです
そのとき 学校の傍を通りかかり 学校に行かねばならない時なのに
 そう悩んだと  そんな先生もいるんですよね 

放送設備が使えれば 元放送委員(小中学生のとき)としては 張り切らなくては
   「おまかせ!」

放送室にいるせいか 問い合わせが多いんです
「ここ以外に 避難所はどこに?」
「遺体はどこに 運ばれたんでしょう」
3日もすると 安否を尋ねてくる人が だんだん増えて来るんです

さて 私がした仕事は
1、放送での連絡(水 食糧配給)
2、尋ね人の呼び出し
3、各種問い合わせ
4、夜中の病人の相手
5、教頭のおばはんと喧嘩
6、世話焼き
7、おしゃべり(情報収集????)
    位だったでしょうか

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