信楽と言えば タヌキ!!
製陶会社が多い信楽ですが
どうしても作品はほとんど タヌキさん
その中に 堂々と狛犬さんがいるではありませんか!!!!!!!
どうしても紹介したくて・・・・・・
信楽焼の狛犬さん 素敵ですよねぇ
シャベリ足りない話のイロいろ
「狛犬さん」狛犬さんしかご紹介していませんので、それ以外 お宮さんの話や、・・・・・とか?!?!?!?とか&%$#@*などの話を書いていきたいと 思っては居ます
2011年2月12日土曜日
♪よいとよいやまか どっこいさのせぇ♪
豪州温度????
江州音頭って書きたかったのに
誰が オーストラリアの温度を測るんじゃぁ
昔 学校の体育祭で 踊らされたんですが
♪えんやこらせぇ どっこいせ♪だったかな?
ワスレタ・・・・・・・
確か 途中に入れる囃し言葉が
こんなのだったような記憶があるのですが
以前は八日市市
今では 東近江市八日市
散歩してきました
そこで こんな石碑を見かけたんです
石碑の横の説明板に
江州音頭って書きたかったのに
誰が オーストラリアの温度を測るんじゃぁ
昔 学校の体育祭で 踊らされたんですが
♪えんやこらせぇ どっこいせ♪だったかな?
ワスレタ・・・・・・・
確か 途中に入れる囃し言葉が
こんなのだったような記憶があるのですが
以前は八日市市
今では 東近江市八日市
散歩してきました
そこで こんな石碑を見かけたんです
石碑の横の説明板に
江州音頭
古来 八日市市は市場町として発達し
歴史的な伝統と豊かな民族文化を形成してきた。
江州音頭も幾多の伝承されてきた民芸のなかの一つである。
江州音頭は江戸時代末期 八日市市場に
出入りしていた祭文語り櫻川雛山に歌祭文の
教えを受けた板前修業の西沢寅吉が、
当時盛んであった歌念仏、踊り口説、念仏踊りを
歌祭文に取り入れ大成したのが始まりである。
これが当初、江州八日市祭文音頭といわれたものである。
そして寅吉は教えを受けた櫻川雛山師匠の
芸名を用い、櫻川大龍と名乗り名をなしたのである。
初代大龍に次いで、真鍮鋳物細工を家業としていた
奥村九左衛門(初代 真鍮家好文)も
八日市祭文音頭の家元として一派をなし
そしてこの櫻川、真鍮家の二家元により
江州八日市祭文音頭は、全国に「江州音頭」として
なじまれるまでに発展してきたのである。
市内金屋町金念寺境内には門弟の建立になる
初代櫻川大龍と真鍮家好文の慰霊碑がある。
江州音頭には座敷音頭と屋台音頭(盆踊り歌)とがあり
明治二十年より三十六年頃まで大阪千日前の
一席亭にかけられたのである。この江州音頭が
爆発的な人気を呼び 当時、河内音頭を歌っていた
玉子家鳥丸、砂川千丸らも江州音頭を糧とした。
江州音頭は一曲に小一時間も要し三曲も演ずれば
三時間もかかり、縁者も客席も飽きるところから
曲の切れ目に関西万歳を幕間つなぎに取り入れた人こそ
玉子家鳥丸、後の漫才の元祖玉子家円辰である。
現在、江州音頭保存会も結成され、毎年行われる
開市の始祖聖徳太子を崇める聖徳まつりの中で、
江州音頭の市民総踊りは人気の中心である。
この八日市市に有志により「江州音頭発祥の地」の
記念碑も建立され、先人の努力を顕彰するとともに、
更にその普及と保存振興が はかられている。
2011年2月6日日曜日
2011年2月4日金曜日
信楽高原鐡道
滋賀県の信楽と言えば”タヌキさん”
良く見かけますでしょう
徳利を下げて立っているタヌキさん
しかぁし 信楽高原鐡道に乗るのは
メチャンコ ムズイのであ~る!!
普通 JRから私鉄に乗り換えるときは
一旦 JRを出て 私鉄の改札口へ行きますよね
でもねぇ 信楽高原鐡道はね
JRと同じホームから出るんです
私 JR草津駅で降りて・・・・・
外へ出たんです
近江鉄道の駅はあったんです
でも 信楽高原鐡道は いづこに?
仕方なくJRの駅員さんに伺いました
すると小さな印刷した紙を渡し
「これを見せて 改札を入ってください
料金は 駅で支払ってください」
そんなこんなでうろついている間に
予定していた電車 出てしまった(涙)
約1時間30分後
改めて JRの改札を入って行きました
駅員さん 横を向いていたので
さっきもらった紙 見せないで入ったけれど
No Plobrem!!
ホームに 自動改札口が・・・・・・
右手に写っているのはJRの電車
左手に 信楽高原鐡道が止まります
途中駅員さんのいない駅があります
しかも ワンマン電車
料金は 運転手さんに支払い
信楽駅はさすがに大きな駅で
ちゃんと駅の改札で 料金支払いしました
えらい時間がかかってしまいましたが
結構楽しい経験でした(^0_0^)
良く見かけますでしょう
徳利を下げて立っているタヌキさん
しかぁし 信楽高原鐡道に乗るのは
メチャンコ ムズイのであ~る!!
普通 JRから私鉄に乗り換えるときは
一旦 JRを出て 私鉄の改札口へ行きますよね
でもねぇ 信楽高原鐡道はね
JRと同じホームから出るんです
私 JR草津駅で降りて・・・・・
外へ出たんです
近江鉄道の駅はあったんです
でも 信楽高原鐡道は いづこに?
仕方なくJRの駅員さんに伺いました
すると小さな印刷した紙を渡し
「これを見せて 改札を入ってください
料金は 駅で支払ってください」
そんなこんなでうろついている間に
予定していた電車 出てしまった(涙)
約1時間30分後
改めて JRの改札を入って行きました
駅員さん 横を向いていたので
さっきもらった紙 見せないで入ったけれど
No Plobrem!!
ホームに 自動改札口が・・・・・・
右手に写っているのはJRの電車
左手に 信楽高原鐡道が止まります
途中駅員さんのいない駅があります
しかも ワンマン電車
料金は 運転手さんに支払い
信楽駅はさすがに大きな駅で
ちゃんと駅の改札で 料金支払いしました
えらい時間がかかってしまいましたが
結構楽しい経験でした(^0_0^)
2011年1月31日月曜日
久しぶりに 霜をみました
滋賀県に 行って来たのですが
メチャンコ 寒かったですぅ
雪が降るのではないかと思うほど
でも 畑や空き地の草の上には
大量の霜が・・・・・・
霜が降りると 晴れる
本当に 良い天気でした
風さえ吹かなければ
町中に住んでいると
なかなか霜の降りた風景なんて見ませんよね
雪が見られるかと思いましたが
雪は 道端に少し残っているだけでした
本当に雪が見たければ
もっと北に行けばいいと判っていますが
寒いし 雪道は歩きにくいので
避けました
結局私は 何がしたかったのでしょうね
メチャンコ 寒かったですぅ
雪が降るのではないかと思うほど
でも 畑や空き地の草の上には
大量の霜が・・・・・・
霜が降りると 晴れる
本当に 良い天気でした
風さえ吹かなければ
町中に住んでいると
なかなか霜の降りた風景なんて見ませんよね
雪が見られるかと思いましたが
雪は 道端に少し残っているだけでした
本当に雪が見たければ
もっと北に行けばいいと判っていますが
寒いし 雪道は歩きにくいので
避けました
結局私は 何がしたかったのでしょうね
2011年1月1日土曜日
あけまして おめでとうございます
本編の 狛犬さんも 1000回をようやく越えました
おまけ?のこのBLOGは さてどうなりますか
よく さぼりますので・・・・・・・・
今年からは 少し真面目に書いていこうかと思っています
暇で暇で する事が無い方
たまには 覗いて見て下さいませ
皆さまにとり 今年はさらに良い年になるよう
祈念しつつ
おまけ?のこのBLOGは さてどうなりますか
よく さぼりますので・・・・・・・・
今年からは 少し真面目に書いていこうかと思っています
暇で暇で する事が無い方
たまには 覗いて見て下さいませ
皆さまにとり 今年はさらに良い年になるよう
祈念しつつ
2010年12月27日月曜日
海岸線は何処まで
鳴門市里浦町里浦にある十二神社に行った時の事なのですが
お宮さんの傍にある畑が 変!?
どう見ても 砂 しかも海岸の
これ 畑なのですよ
まぁ 海岸に近いっちゃ近いですけどね
少し歩いた所でこんなものに 出会いました
説明板によりますと
今では 断崖絶壁なんて想像もつかない所に生えています
確か 後ろには民家が建っていましたよ
約15分?位歩くと こんな景色にぶつかりました
遠くにかすんでいるのは 大鳴門橋
朝は雨がぱらついていたのに 良い天気です
さぁて 次のお宮さんは・・・・・・・・・
お宮さんの傍にある畑が 変!?
どう見ても 砂 しかも海岸の
これ 畑なのですよ
まぁ 海岸に近いっちゃ近いですけどね
少し歩いた所でこんなものに 出会いました
説明板によりますと
鳴門市指定 天然記念物そうですが
岩付のウバメガシ
昭和四十九年八月十二日指定
ウバメガシはブナ科に属し海岸地帯
に群生する樹木で鳴門市の代表的な
ものである
この木はその樹相より見て相当に年
数を経たものと考えられる老木で岩に
纏著し根はその割れ目の中に深く入り込
んでたくましい姿を見せている
かっては海岸の絶壁に生育していた
ものと考えられその面影を留める貴重
な文化財である
なおこの岩は蓑掛岩と呼ばれ西行法
師が諸国行脚の道すがら雨やどりした
ときこの岩に蓑をかけたと言い伝えら
れている
今では 断崖絶壁なんて想像もつかない所に生えています
確か 後ろには民家が建っていましたよ
約15分?位歩くと こんな景色にぶつかりました
遠くにかすんでいるのは 大鳴門橋
朝は雨がぱらついていたのに 良い天気です
さぁて 次のお宮さんは・・・・・・・・・
2010年12月26日日曜日
挙動不審者?????
徳島県鳴門市にある岩崎神社で
遊んでいた時のことなんですけどね
この写真を撮りはじめていると
誰かの足音がして 人が来た気配は感じていたんですよ
今まで いろんな木鼻を見てきましたが
こう云う横から見るとペタンコなのは 珍しく
喜んでいたんですよ
で ふと 見ると若い警察官が 本殿を眺めて・・・・・・
(こんなところまで 巡回に来るの?)
いいえ そうではありません
お宮さんの入口に 真っ赤なレンタサイクルを
置いて上がってきたので 観光客発見!!ってことで
チェック対象は 私 (」゜ロ゜)」 ナント
観光客で忘れ物をし 12万円もの大金を
盗まれた人がいたとかで 注意して下さったんですが
実はね 私ね そのちょっと前にね
財布に4~5千円しかないことに 気が付いたんですよ
その日に泊まるホテル代も払えない (・・; ) ( ;・・)オロオロ
慌てて 使える銀行を探し 結局コンビニで
下ろしたんですよ 2万円ほど
5千円もあればよかったんですが 一応念の為
だって 一泊4000円ほどの ビジネスホテル泊まりですから
まあ そんなことはどうでもいいんですが
(良くないかな??)
おまわりさんに 「狛犬さんの写真を撮りに来ています」
そう言うと その時写していた木鼻を指差し
「これですか?」
(はぁ 狛犬さん 知らない? ウッソ~~~~~)
「狛犬さんは あれです」って 教えてあげましたが
狛犬さん普及委員会会長としては
とてもショックな出来事でした Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン
え~~~ 長々と書いてきましたが
本当に言いたかったのは それだけ
でもね 何十段かの階段をわざわざ上がって来て
きっと 親切で注意して下さったのでしょうが
生まれて初めて お宮さんでお巡りさんに話しかけられ
(私何か悪いことしたかな?)って
ビビりましたよ
なにせ 普段が普段ですから・・・・・・・・
遊んでいた時のことなんですけどね
この写真を撮りはじめていると
誰かの足音がして 人が来た気配は感じていたんですよ
今まで いろんな木鼻を見てきましたが
こう云う横から見るとペタンコなのは 珍しく
喜んでいたんですよ
で ふと 見ると若い警察官が 本殿を眺めて・・・・・・
(こんなところまで 巡回に来るの?)
いいえ そうではありません
お宮さんの入口に 真っ赤なレンタサイクルを
置いて上がってきたので 観光客発見!!ってことで
チェック対象は 私 (」゜ロ゜)」 ナント
観光客で忘れ物をし 12万円もの大金を
盗まれた人がいたとかで 注意して下さったんですが
実はね 私ね そのちょっと前にね
財布に4~5千円しかないことに 気が付いたんですよ
その日に泊まるホテル代も払えない (・・; ) ( ;・・)オロオロ
慌てて 使える銀行を探し 結局コンビニで
下ろしたんですよ 2万円ほど
5千円もあればよかったんですが 一応念の為
だって 一泊4000円ほどの ビジネスホテル泊まりですから
まあ そんなことはどうでもいいんですが
(良くないかな??)
おまわりさんに 「狛犬さんの写真を撮りに来ています」
そう言うと その時写していた木鼻を指差し
「これですか?」
(はぁ 狛犬さん 知らない? ウッソ~~~~~)
「狛犬さんは あれです」って 教えてあげましたが
狛犬さん普及委員会会長としては
とてもショックな出来事でした Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン
え~~~ 長々と書いてきましたが
本当に言いたかったのは それだけ
でもね 何十段かの階段をわざわざ上がって来て
きっと 親切で注意して下さったのでしょうが
生まれて初めて お宮さんでお巡りさんに話しかけられ
(私何か悪いことしたかな?)って
ビビりましたよ
なにせ 普段が普段ですから・・・・・・・・
2010年12月22日水曜日
新発見! 又は不思議発見!?
別に大したことでは無いように思いますが・・・・・
先日徳島県鳴門市まで 狛犬さんの写真を撮りに行きました
徳島県は 徳島独特の
私が 徳島スタイルと呼んでいるデザインの狛犬さんが
県内全域で見かけられますが
鳴門市では 今の所徳島スタイルが居ません
どうしてなのか?! 不思議です
間違い無く徳島県(阿波藩)の領内だと思うのは
各神社に「社日」が あることです
四国内では 基本的に徳島県内(阿波藩内)のみで
見られるものです
「社日」とは 産土神を祀る日だそうです
徳島県では「じじんさん」と呼んでいる所もあります
徳島全域かどうかは知りませんよ
社日には 畑仕事を休み 御馳走を食べる
土仕事はやらない日だそうですよ
2011年の社日は
春は3月24日 秋は9月20日だそうです
基本的には 五角形の石造で
北側を正面に
天照大神 大己貴命 稲倉魂命 埴安媛命 少彦名命
以上五柱の神様の名前が 刻まれています
しかし 別のデザインもありますけれど・・・・・
写真は行方不明 何処にあるのかわかりません
写真の社日は
農業祖神天照大神
五穀祖神倉稲魂命
土御祖神埴安姫命
五穀祖神少彦名命
五穀護神大己貴命
と刻まれています
本当は田畑に 置かれているものなのでしょうが
住宅地になったりして 不要?になったためでしょうか
よく お宮さんの境内の片隅に 置かれています
倉稲魂命は稲倉魂命とも書きますが
どちらが正しいのでしょうかねぇ
よく知られた言い方をすれば
「お稲荷さん」
先日徳島県鳴門市まで 狛犬さんの写真を撮りに行きました
徳島県は 徳島独特の
私が 徳島スタイルと呼んでいるデザインの狛犬さんが
県内全域で見かけられますが
鳴門市では 今の所徳島スタイルが居ません
どうしてなのか?! 不思議です
間違い無く徳島県(阿波藩)の領内だと思うのは
各神社に「社日」が あることです
四国内では 基本的に徳島県内(阿波藩内)のみで
見られるものです
「社日」とは 産土神を祀る日だそうです
徳島県では「じじんさん」と呼んでいる所もあります
徳島全域かどうかは知りませんよ
社日には 畑仕事を休み 御馳走を食べる
土仕事はやらない日だそうですよ
2011年の社日は
春は3月24日 秋は9月20日だそうです
基本的には 五角形の石造で
北側を正面に
天照大神 大己貴命 稲倉魂命 埴安媛命 少彦名命
以上五柱の神様の名前が 刻まれています
しかし 別のデザインもありますけれど・・・・・
写真は行方不明 何処にあるのかわかりません
写真の社日は
農業祖神天照大神
五穀祖神倉稲魂命
土御祖神埴安姫命
五穀祖神少彦名命
五穀護神大己貴命
と刻まれています
本当は田畑に 置かれているものなのでしょうが
住宅地になったりして 不要?になったためでしょうか
よく お宮さんの境内の片隅に 置かれています
倉稲魂命は稲倉魂命とも書きますが
どちらが正しいのでしょうかねぇ
よく知られた言い方をすれば
「お稲荷さん」
2010年10月31日日曜日
坂本竜馬脱藩の道!
坂本竜馬が 脱藩したとき
この梼原を通過して行ったそうです
現在の地名は 高知県高岡郡梼原
小さな町ですが 観光客が沢山来ていました
ほんと 竜馬って人気有るんですねぇ
余談ですが 「りゅう」の字は
「龍」より「竜」の字の方が 古いそうです
竜の字は 竜の形を表わしているそうですよ
で 本日の話題は 梼原にある三嶋神社
神橋というのでしょうか
神社のすぐ前の川を渡るための橋に
屋根が付いています
これは 新しいものですが
もっと山奥に行くと 釘を一本も使わず作られた
古い橋もあります
手前に傘を肩に立っている人は ガイドさん
皆さん 竜馬に扮しているんですよ
中には 子供の竜馬もいました
たまたま偶然私たちが行った時
お宮さんのお祭りで お神楽をやっていました
10月29日30日が大祭だそうです
時間の関係でゆっくり見る事が出来ず残念
人々の間から写したホンの一場面
小さな子供を抱いて クルクル回ります
子供の無事な成長を祈る
厄除けのような事なのかなと 見てました
外には子供を抱いたお母さんたちが
列をなして 待っていました
この梼原を通過して行ったそうです
現在の地名は 高知県高岡郡梼原
小さな町ですが 観光客が沢山来ていました
ほんと 竜馬って人気有るんですねぇ
余談ですが 「りゅう」の字は
「龍」より「竜」の字の方が 古いそうです
竜の字は 竜の形を表わしているそうですよ
で 本日の話題は 梼原にある三嶋神社
神橋というのでしょうか
神社のすぐ前の川を渡るための橋に
屋根が付いています
これは 新しいものですが
もっと山奥に行くと 釘を一本も使わず作られた
古い橋もあります
手前に傘を肩に立っている人は ガイドさん
皆さん 竜馬に扮しているんですよ
中には 子供の竜馬もいました
たまたま偶然私たちが行った時
お宮さんのお祭りで お神楽をやっていました
10月29日30日が大祭だそうです
時間の関係でゆっくり見る事が出来ず残念
人々の間から写したホンの一場面
小さな子供を抱いて クルクル回ります
子供の無事な成長を祈る
厄除けのような事なのかなと 見てました
外には子供を抱いたお母さんたちが
列をなして 待っていました
2009年10月22日木曜日
事件か? 検問中???
西条市の狛犬さん探しを兼ねて
お祭り見物をしようと 出かけました
えぇ~~っと 確かこの辺りにお宮さんがある筈
そう思って歩いていると
検問??
もしかして ・・・・・が バレタ?!
思わず逃げようとして なんてね
パトカーの横をすり抜けていくと その先に
お祭りの屋台(だんじり)の団体さん
愛媛県西条市氷見乙にある 石岡神社のお祭り
ここのお祭りでは 「だんじり」と「みこし」が
同時に見られるそうで 行って来たんですよ
屋台(だんじり)・太鼓台・神輿がありますが
石岡神社では 太鼓台って書いてあったのが
他のところでは神輿って 書いてあります
呼び方 間違ってたら ごめんです
だんじりの練りまわし
太鼓台と神輿
お祭り見物をしようと 出かけました
えぇ~~っと 確かこの辺りにお宮さんがある筈
そう思って歩いていると
検問??
もしかして ・・・・・が バレタ?!
思わず逃げようとして なんてね
パトカーの横をすり抜けていくと その先に
お祭りの屋台(だんじり)の団体さん
愛媛県西条市氷見乙にある 石岡神社のお祭り
ここのお祭りでは 「だんじり」と「みこし」が
同時に見られるそうで 行って来たんですよ
屋台(だんじり)・太鼓台・神輿がありますが
石岡神社では 太鼓台って書いてあったのが
他のところでは神輿って 書いてあります
呼び方 間違ってたら ごめんです
だんじりの練りまわし
太鼓台と神輿
2009年9月18日金曜日
高知城天守閣資料館にいた狛犬さんです
「尾戸焼」だそうですが
そもそも尾戸焼とは なんでしょうか?
傍にあった説明板によりますと
尾戸焼(おどやき)は承応2(1653)年、2代藩主忠義が大坂高津の陶工久野正伯を招き、
高知城北麓の尾戸(現高知市小津町)に
窯を開いた事に始まる藩窯である。尾戸焼の
基礎を築いた正伯は、5年ほどのちの
明暦4(1658)に土佐を去ったが、
その技術は森田九右衛門、山崎平内の二人の
門弟に継承された。尾戸焼は主として茶器や花器、
香炉や置物などの美術品を多く焼き、歴代藩主の
贈答品として珍重された。
文政3(1820)年能茶山に新たに窯が
創設されると、尾戸での操業は差し止めとなり、
文政5(1822)年窯を能茶山に移転し
創作を続けた。明治に入り藩窯が停止されると
民営となり、森田・山崎両家は独立して
窯元となった。一時期衰退したこともあったが、
明治年間は8代森田潤が尾戸焼の復興に努め、
市原峴山、西和田久三朗、土居栄作らが
手腕を発揮した。大正から昭和にかけては、
中島空哉や中西宋晋、川田蘭山、中川半九らが
活躍した。現在、土居焼と谷焼があり、
また森田家も家業を再興し、尾戸焼の
伝統を伝えている。
そうです
しかし 良い顔してますでしょう
2008年5月21日水曜日
う~~~ん インターナショナルゥゥゥゥ!
2008年5月14日水曜日
2008年5月5日月曜日
2008年5月1日木曜日
愛宕山
京都の街中を歩いていると目についたのが これ「愛宕山」
街のあちらこちらに 見かけました 常夜灯ですよね
横に町内安全なんて文字が刻まれています
愛宕さんといえば 火防せの神様
今もそうですが 昔は火事は今以上に大変なことですよね
そこで 町中の防火を祈って 立てたのでしょうね
地蔵堂の横に立っているのもよく見かけましたね
下桂御霊神社の入り口にあった 愛宕山です
常夜灯というより 愛宕山と呼ぶ方が これにはぴったりのような気がしてるんです
この2基は 桂離宮の傍にある春日神社の境内にある愛宕山
左側は 安永七戊戌(1778)八月吉日 建立
右側は 文化五戊辰(1808)年五月
の年号が刻まれていました
本当?の愛宕山は 京都市右京区にある山なのですが 修験道の道場があり
江戸時代の中頃から愛宕山に修行にきた 修験者が全国にその信仰を広めたようです
愛宕山の上には 愛宕神社があり 以前は阿多古神社と書かれていました
大宝年間(701~704)修験道の祖役小角と 白山の開祖泰澄が創立した神社だそうです
一時期 神仏混淆となり白雲寺というお寺が あったそうですが 明治の神仏分離令により
白雲寺は 廃絶されたそうです
「阿多古 祀符 火廼要慎(ひのようじん)」と書かれたお札を台所に貼ってあるのを
ご覧になったこと ありませんか?
街のあちらこちらに 見かけました 常夜灯ですよね
横に町内安全なんて文字が刻まれています
愛宕さんといえば 火防せの神様
今もそうですが 昔は火事は今以上に大変なことですよね
そこで 町中の防火を祈って 立てたのでしょうね
地蔵堂の横に立っているのもよく見かけましたね
下桂御霊神社の入り口にあった 愛宕山です
常夜灯というより 愛宕山と呼ぶ方が これにはぴったりのような気がしてるんです
この2基は 桂離宮の傍にある春日神社の境内にある愛宕山
左側は 安永七戊戌(1778)八月吉日 建立
右側は 文化五戊辰(1808)年五月
の年号が刻まれていました
本当?の愛宕山は 京都市右京区にある山なのですが 修験道の道場があり
江戸時代の中頃から愛宕山に修行にきた 修験者が全国にその信仰を広めたようです
愛宕山の上には 愛宕神社があり 以前は阿多古神社と書かれていました
大宝年間(701~704)修験道の祖役小角と 白山の開祖泰澄が創立した神社だそうです
一時期 神仏混淆となり白雲寺というお寺が あったそうですが 明治の神仏分離令により
白雲寺は 廃絶されたそうです
「阿多古 祀符 火廼要慎(ひのようじん)」と書かれたお札を台所に貼ってあるのを
ご覧になったこと ありませんか?
2008年4月25日金曜日
天岩戸神社
上に見える 鳥居の方に行くと元伊勢内宮皇大神社
ここにある黒木の鳥居が 京都嵯峨野の野々宮神社の二か所にしかない
珍しいものなんですって
しかし私は そのまま下の道をたどり 天岩戸神社に向かいました
京都府が建てた案内板によりますと
だそうです
下の駐車場から 7~800mだそうですが
上り坂なので到着までちょっと時間がかかりました
上がっていく横を川が流れていますが それが五十鈴川(@@)
地図上では二瀬川と書かれているようです
途中に 五十鈴川御手洗所?だったかな 身を清めるところ
三重県の伊勢神宮にもありますよね それがあります
がしかし ちょっと急な坂を下りていかなければ いけないんですよ
私は・・・・・・・・横目に見て通過
小さな祠(龍燈明神と書かれていました)の横に 天岩戸神社の案内板
それに従って 階段を下りていきます
本殿遥拝所が見えてきます
ここから 向こうに見えている本殿に向かって 心をこめてお祈りします
右側に 鳥居と下に降りる階段がありますが
これを下りると本殿のすぐ下まで行けます
本殿は岩の上 はるかに高い所にあります
左手には二瀬川が
でもこのあたりは激流ですよ
天岩戸大神宮の由緒書によりますと
左手は激流 右手上に祠
神様の住まいにふさわしい場所でした
産釜遥拝所から見たところです
向こう側にある甌穴(おうけつ)がそうでしょうか?
え~~っと誰が立ったかなぁ?説明板があったんだけど 撮り損ねた
誰かが 産湯をつかったので 産釜と呼ぶと書いてあったような気が・・・・
甌穴は 川底や川岸にある岩に割れ目等 弱い部分があると
そこに水流でくぼみができ そこに小石が入り込んだりすると
その小石が 水流のためくぼみの中で回転し 穴が大きくなっていくそうです
ここにある黒木の鳥居が 京都嵯峨野の野々宮神社の二か所にしかない
珍しいものなんですって
しかし私は そのまま下の道をたどり 天岩戸神社に向かいました
京都府が建てた案内板によりますと
岩戸山
京都府歴史的自然環境保全地域
昭和59年3月13日指定(京都府加佐郡大江町)
天岩戸神社の神域は二瀬川の両岸に広がり 左岸は皇大神宮に連続し
右岸は標高427,3mの岩戸山となっています
皇大神宮参道の遥拝所からは この岩戸山斜面の美しいピラミッド形の
山の姿をながめることができます
この東側斜面は 天岩戸神社のご神体として 古くから保護されてきたことから
ほぼ原生状態に近い植生が残されており この地域の植生を知る上で
極めて学術的価値の高い自然林となっています
天岩戸神社は大江町の元伊勢三社の一つで
〔皇大神社(内宮)・豊受大神社(外宮)・天岩戸神社〕の一つで
伊勢の皇大神宮の元宮として 古くからこの地方の象徴的存在として
崇敬されてきました
天岩戸神社の祭神である櫛岩窓戸命は門を守る岩石の神であり
岩戸渓谷の幽玄の地と天岩戸に比定し 古事記の大神の門番神を
配祀していると伝えられています
京都府
だそうです
下の駐車場から 7~800mだそうですが
上り坂なので到着までちょっと時間がかかりました
上がっていく横を川が流れていますが それが五十鈴川(@@)
地図上では二瀬川と書かれているようです
途中に 五十鈴川御手洗所?だったかな 身を清めるところ
三重県の伊勢神宮にもありますよね それがあります
がしかし ちょっと急な坂を下りていかなければ いけないんですよ
私は・・・・・・・・横目に見て通過
小さな祠(龍燈明神と書かれていました)の横に 天岩戸神社の案内板
それに従って 階段を下りていきます
本殿遥拝所が見えてきます
ここから 向こうに見えている本殿に向かって 心をこめてお祈りします
右側に 鳥居と下に降りる階段がありますが
これを下りると本殿のすぐ下まで行けます
本殿は岩の上 はるかに高い所にあります
左手には二瀬川が
でもこのあたりは激流ですよ
天岩戸大神宮の由緒書によりますと
偉大な祖神である天照大御神は速須佐之男命の乱暴な行いに
堪え忍んでおられたが とうとう我慢しきれずに 天の岩戸に閉じ籠りになられた
それで この世は真暗くなってしまい悪いことばかりが連続して起こり
拾収がつかなくなってしまったので
八百万神々は天安河原に集まられ相談された
そこで 天の岩戸の前で長鳴鳥を鳴かせ 真榊の木に勾玉を飾り
御神鏡をかかげ 御幣を持ち 神饌物を捧げて
賑やかに歌い踊り音楽し祝詞を申し上げた
この時 尊い天照大御神は外の様子を不思議に思われ
天の岩戸を細めに開いて見られたので 御神鏡を差し出し申した
畏い天照大御神はますます変だと思われ すこし天の岩戸からでられたところを
お引出し申したので 世の中は明るくなり救われたのである
さて この由緒ある御神鏡が神宝と信じられ 救世平和神とされている
昭和四十七年 九月
天岩戸大神宮
当天の岩戸神社は 往昔地神の元始神天照大神籠居ましし霊地にして
真名井ヶ原・真名井ヶ池・楽の堂・産盥・産釜・神楽岩・御座石・
鶏鳴岩・鱒池・鮎返りの滝等の地名旧蹟あり
殊に産盥の霊水は 平常満水することなく或は減水することなく
且つ腐水することかってなく この霊水は旱魃の際 其の霊水の少許を
水上に注ぐときは 如何なる旱魃時と雖も 神雨不思議に降り来り
庶民安堵の胸を撫するにより 往昔より今に至るも尚其の慣例絶へざるなり
昭和四十七年 九月
天岩戸大神宮
左手は激流 右手上に祠
神様の住まいにふさわしい場所でした
産釜遥拝所から見たところです
向こう側にある甌穴(おうけつ)がそうでしょうか?
え~~っと誰が立ったかなぁ?説明板があったんだけど 撮り損ねた
誰かが 産湯をつかったので 産釜と呼ぶと書いてあったような気が・・・・
甌穴は 川底や川岸にある岩に割れ目等 弱い部分があると
そこに水流でくぼみができ そこに小石が入り込んだりすると
その小石が 水流のためくぼみの中で回転し 穴が大きくなっていくそうです
2008年4月24日木曜日
伊勢神宮は何処にあるか!?
2008年3月31日月曜日
2008年3月29日土曜日
2008年3月27日木曜日
野球場見物?
ン十年振りに 野球なるものを 見に行って来ました
え~~~っと オリックスVS近鉄
じゃ無くてぇ オリックスVS東北楽天 です
「花火がある 見に行こう」と主人に誘われたんですよ
一時間以上前に行ったのに すごい行列(@@;)
しかぁし われわれはぁ 急がず騒がず 入場が始まってから大分たって
行列が短くなってから ゆうゆうと入っていきました\(^o^)/
何でもいいけれど 寒かった(>_<)
もともとや急に興味が無いので 選手が出てきても
「それ 誰???????」
一回の裏だったかな?
「いけ~~~~~~~~~っ!
あ゛あ゛あ゛~~~~~~~~~~~~!!!」
けたたましい おばちゃん(主人によると おばあちゃん)の 金切り声!!!
おひおひ まだ 一回やで
今から そないに興奮してどないすんねん
「寒いナァ」「寒いナァ」と言ってるうちに 球場は満員に
始まった早々は かなり空いていたんですけどね
勝負と関係なく見てると 野球って面白いね
小学校一年生くらいの男の子
「○○ いけ~~! おまえならやれる!!」
小学生に 言われてもねぇ
楽天も 応援団の数は負けていたけれど 情熱は負けてないねぇ
ブ~~チャカドンドン ブ~~チャカドンドン
そうそう 最近野球場内に 缶や瓶の飲み物持ち込んじゃ いけないんですよね
お客さんが並んでいると でっかい声(放送ですが)で
「缶・瓶・ペットボトルを 持ち込まないで
入り口で コップに入れ替えて・・・・・・・」
何度も 何度も 繰り返して 放送しています
夕食用に サンドイッチとお茶を持っていたのね ペットボトルで
邪魔なので 入場前に ハンドバッグに放り込んじゃったのね
「持ち込み違反をチェックするため 手荷物検査します」
手荷物検査と言っても 何千人も居るのにどのように 調べるのか!
楽しみに並んでいたんですが・・・・・
通路に机があって その前を通り抜ける時 おじさんが
「缶・瓶持ってませんね」って ボソボソボソボソ
「えっ?何? あぁ これがチェック!」と思った時には 通り過ぎた後
チケットを渡し 記念の帽子を貰って 無事通過!!
これだけ? つまんな~~い もっと何かチェックとか検査とかしてよぉ
5回が終わってからだったかな?
♪花火♪が ♪始まりました♪♪♪
「いよ~待ってました!!」
総数400発
そんなに多い数ではありませんが 頭上すぐのところで ひらくんです
綺麗だったよ ほんと綺麗だった
もちろん 花火終了後 即帰りました
でもね 野球場まで徒歩30分くらい
電車乗るほどじゃないのに 往復とも電車
ホントニ ウチノハ コンジョウナインダカラ
えっ 試合の結果?
そんなんしらんがな(^0_0^)
え~~~っと オリックスVS近鉄
じゃ無くてぇ オリックスVS東北楽天 です
「花火がある 見に行こう」と主人に誘われたんですよ
一時間以上前に行ったのに すごい行列(@@;)
しかぁし われわれはぁ 急がず騒がず 入場が始まってから大分たって
行列が短くなってから ゆうゆうと入っていきました\(^o^)/
何でもいいけれど 寒かった(>_<)
もともとや急に興味が無いので 選手が出てきても
「それ 誰???????」
一回の裏だったかな?
「いけ~~~~~~~~~っ!
あ゛あ゛あ゛~~~~~~~~~~~~!!!」
けたたましい おばちゃん(主人によると おばあちゃん)の 金切り声!!!
おひおひ まだ 一回やで
今から そないに興奮してどないすんねん
「寒いナァ」「寒いナァ」と言ってるうちに 球場は満員に
始まった早々は かなり空いていたんですけどね
勝負と関係なく見てると 野球って面白いね
小学校一年生くらいの男の子
「○○ いけ~~! おまえならやれる!!」
小学生に 言われてもねぇ
楽天も 応援団の数は負けていたけれど 情熱は負けてないねぇ
ブ~~チャカドンドン ブ~~チャカドンドン
そうそう 最近野球場内に 缶や瓶の飲み物持ち込んじゃ いけないんですよね
お客さんが並んでいると でっかい声(放送ですが)で
「缶・瓶・ペットボトルを 持ち込まないで
入り口で コップに入れ替えて・・・・・・・」
何度も 何度も 繰り返して 放送しています
夕食用に サンドイッチとお茶を持っていたのね ペットボトルで
邪魔なので 入場前に ハンドバッグに放り込んじゃったのね
「持ち込み違反をチェックするため 手荷物検査します」
手荷物検査と言っても 何千人も居るのにどのように 調べるのか!
楽しみに並んでいたんですが・・・・・
通路に机があって その前を通り抜ける時 おじさんが
「缶・瓶持ってませんね」って ボソボソボソボソ
「えっ?何? あぁ これがチェック!」と思った時には 通り過ぎた後
チケットを渡し 記念の帽子を貰って 無事通過!!
これだけ? つまんな~~い もっと何かチェックとか検査とかしてよぉ
5回が終わってからだったかな?
♪花火♪が ♪始まりました♪♪♪
「いよ~待ってました!!」
総数400発
そんなに多い数ではありませんが 頭上すぐのところで ひらくんです
綺麗だったよ ほんと綺麗だった
もちろん 花火終了後 即帰りました
でもね 野球場まで徒歩30分くらい
電車乗るほどじゃないのに 往復とも電車
ホントニ ウチノハ コンジョウナインダカラ
えっ 試合の結果?
そんなんしらんがな(^0_0^)
2008年3月26日水曜日
神戸市北区にある農村歌舞伎舞台
北区下谷上にある天彦根神社にある舞台です
残念ながら この舞台は周りが閉じられていたので 中は見えませんでした
説明板によりますと
こちらは上谷上にある天満神社にある農村歌舞伎舞台です
ここから入っていくと 正面が神社の本殿です
入り口を入った左右には 色々の道具が置かれています
舞台下の奈落に入っていくのでしょうか?
本殿から見た 舞台の全景です
説明板によりますと
また入り口に石碑が建っていて
どちらの舞台も お芝居をしているところを 見てみたいものです
残念ながら この舞台は周りが閉じられていたので 中は見えませんでした
説明板によりますと
下谷上農村歌舞伎舞台
この舞台は 江戸時代末の天保十一年(一八四〇)に建てられた村芝居の舞台である
江戸時代には 原則として 農民が芝居を観たり演じたりすることは禁じられていたが
実際には このような歌舞伎舞台が各地に建てられ 農民達は歌舞伎を楽しんでいた
現存する舞台は 全国で約二千棟 兵庫県下で約一七〇棟ばかりである
この舞台の特色は 次のような点にあり 全国屈指の歌舞伎舞台として
国指定の重要有形民俗文化財に指定されている
一、江戸時代末の建立で 舞台建築としては古いこと
二、規模が雄大であること(間口十二メートル 奥行 八メートル)
三、花道・太夫座・廻り舞台・二重台・大迫り・ぶどう棚など 多種の舞台機構を
備えていること
四、花道の一部が回転して 反り橋が出る特殊機構があること(全国唯一)
五、神社境内の付属建造物である長床(宮座行事の建物)の
利用舞台としての典型であること
なお この舞台は昭和五十二年(一九七七)一月に 不審火で焼損したが
同五十四年(一九七九)九月に修復された
神戸市教育委員会
こちらは上谷上にある天満神社にある農村歌舞伎舞台です
ここから入っていくと 正面が神社の本殿です
入り口を入った左右には 色々の道具が置かれています
舞台下の奈落に入っていくのでしょうか?
本殿から見た 舞台の全景です
説明板によりますと
県指定文化財 上谷上農村舞台
指定年月日 昭和四46年4月1日
所有者・管理者 上谷上農村歌舞伎舞台保存会
江戸末期から明治にかけて 農村歌舞伎が全国的に流行し
山田町でも十三ヶ村に十四棟もあった
茅葺入母屋造平屋、正面11.07メートル、側面7.40メートルである
この舞台は文久3年(1863)に建てられたと推定され
割拝殿形式で 建物の中央が参道になっている
舞台として用いる時には床を張り 花道は分解式で左横斜めにつけられている
床下の石壁造りの奈落は 楽屋になっている
この舞台の特徴は上演のとき 床机四台をつないで 廻り舞台にしていることである
平成4年11月
兵庫県教育委員会
また入り口に石碑が建っていて
この舞台は 文久三年(一八六三)に建てられた
割拝殿型式の農村歌舞伎舞台である
特色は 奈落を設けながら「床机回し」という上回し式回り舞台を有する点にある
明治の初めには ここで「宮討座」という座を組んで 興行に出かけている
県指定昭和四十六年四月一日(文 名生昭作)
昭和五十四年上谷上農村歌舞伎舞台保存会
会長 高田泰治
どちらの舞台も お芝居をしているところを 見てみたいものです
2008年3月25日火曜日
2008年3月24日月曜日
2008年2月7日木曜日
子供の頃の思い出が・・・・
2008年2月6日水曜日
2008年2月5日火曜日
東須磨海浜神社
海と漁港のすぐ傍にあるお宮さんです
行くまでは 蛭子さんが祀られているのかと思っていました
お宮さんの前にある 注連柱には “海上安全”“豊漁祈願”
でも お宮さんの前に居るのは 狐さん?!
境内の中も 赤い鳥居が い~~~っぱい!
鳥居の扁額には 真ん中に 金刀比羅大権現
右に 伯谷稲荷大明神
左に 甲子大黒天
鳥居の傍に居る狐さん
可哀相に 独身なんですね
コンクリート製だったように覚えていますが 相棒はどうしたのでしょうね
本殿の前に居た狐さんです
きっりとした良い顔をしていますよねぇ
左側の狐さんが 加えているのは 蔵の鍵だそうですね
中にも小さな狐さんが居ましたが 鍵を加えているのは 右側に居ました
鳥居の横に「建立趣意書」と書かれた石板がありました
鳥居の傍の狐さん その時に仲間を失ったのかもしれませんね
行くまでは 蛭子さんが祀られているのかと思っていました
お宮さんの前にある 注連柱には “海上安全”“豊漁祈願”
でも お宮さんの前に居るのは 狐さん?!
境内の中も 赤い鳥居が い~~~っぱい!
鳥居の扁額には 真ん中に 金刀比羅大権現
右に 伯谷稲荷大明神
左に 甲子大黒天
鳥居の傍に居る狐さん
可哀相に 独身なんですね
コンクリート製だったように覚えていますが 相棒はどうしたのでしょうね
本殿の前に居た狐さんです
きっりとした良い顔をしていますよねぇ
左側の狐さんが 加えているのは 蔵の鍵だそうですね
中にも小さな狐さんが居ましたが 鍵を加えているのは 右側に居ました
鳥居の横に「建立趣意書」と書かれた石板がありました
当金刀比羅大権現宮は 私達漁民の守護神として
最も崇拝し その御加護を受けてまいりましたところ
去る昭和四十五年二月三日未明 不慮の災禍により 炎焼いたしましたが
会員全員の総意により 再建したものである
昭和四十五年四月十日
東須磨漁業振興会
鳥居の傍の狐さん その時に仲間を失ったのかもしれませんね
2008年2月3日日曜日
2008年2月2日土曜日
2008年1月21日月曜日
今も 悲しいです
震災後すぐ家探しをしたので 家はすぐ見つかりました
尼崎市内です
本格的に引っ越すには 道が混んでいて 車が通れないので
少しずつ運んでいきました
私もリュックに荷物を詰め 近くの駅は 電車が通ってないので
神戸市の隣 芦屋市まで 1時間ほど歩きました
沢山の人たちが 列を成し 歩いていきます
普段なら 人数が多いと そこかしこで話し声なんかが聞こえるものですが
このときは 黙々と 歩き続けました
歩いている最中 場所によっては いろんな音がします
ガラスが割れたような音 何かを踏み潰した音 なんだかわからない音
家が倒れて道路にはみ出している所は 車道を歩きます
車も 人も 同じ所を・・・・・
黙々と 唯ひたすら 前に進んでいきます
何のときだったかなぁ
夜 バスに乗りました
そう 雨降りの夜でした
人いきれと雨で 湿度の高くなった車内
声を立てる人はいません
しーんとした車内で 思い出したように ポツリと話し声が・・
それもすぐに絶えてしまいます
長男が 友達の家のトラックを借りてきてくれました
そのお友達も 引越しのお手伝いをしてくれました
長男とお友達二人
このときばかりは 子供が男の子でよかったとしみじみ思いました
しかも 良いお友達に恵まれている事も
荷物は 8階から1階まで 運ぶんです
大きな冷蔵庫もタンスも何もかも運んでくれました
しかも 夜遅く
昼間は道が混んでいるので 夜中に走るんです
そのとき警官が
空き巣狙いと間違われかけたようでした
そのときは そうでもなかったんですが
後になって はらの立つこと
しかも 呼んだのが すぐ横にある壊れなかったマンションの住人
立場を変えると当たり前かもしれませんが
引っ越したくないのに引っ越さなければならない身には
荷物を全て積んだ後 息子たちは 山越えルートで走っていくんです
神戸はすぐ後ろが山ですから
もちろんかなりの遠回りです
引越し先には 前日のうちにご近所周りをして
事情を話し 夜中騒がせる事を 挨拶して回りました
震災後1月ほどしてから 出勤するようになったんですが
頭が変になるというか 精神的におかしくなると言うか
どう言えば良いんでしょうか
今まで住んでいた所は 家はつぶれ マンションも壊れ
それが当たり前の世界
ところが
電車に10分も乗ると 普通の世界
駅前のパチンコやで 昼間から パチンコしている人が・・・・
10分乗ると 壊滅状態の町
普通の世界と 壊滅状態の町を 往復していると
どちらが本当の世界で どちらかが虚構の世界のような
引っ越してから どれくらい経った時でしょう
そう 2週間くらい後だと思いますが
住み慣れた街中を 歩いていると
いろいろの事が 走馬灯のように頭の中をよぎります
あれも出来なかった
こうしてあげればよかった
あの時には・・・・・・・
自分の無力さ 私と言う存在の小ささ
歩きながら ふと気づくと 涙が
人気のない町の中を 一人で泣きながら歩いていました
私の中で 何かが 燃え尽きました
被害の無かった私でさえ いまだに震災を引きずっています
ご家族を亡くした方 被害を受けた方
はや十三年 まだ十三年
尼崎市内です
本格的に引っ越すには 道が混んでいて 車が通れないので
少しずつ運んでいきました
私もリュックに荷物を詰め 近くの駅は 電車が通ってないので
神戸市の隣 芦屋市まで 1時間ほど歩きました
沢山の人たちが 列を成し 歩いていきます
普段なら 人数が多いと そこかしこで話し声なんかが聞こえるものですが
このときは 黙々と 歩き続けました
歩いている最中 場所によっては いろんな音がします
ガラスが割れたような音 何かを踏み潰した音 なんだかわからない音
家が倒れて道路にはみ出している所は 車道を歩きます
車も 人も 同じ所を・・・・・
黙々と 唯ひたすら 前に進んでいきます
何のときだったかなぁ
夜 バスに乗りました
そう 雨降りの夜でした
人いきれと雨で 湿度の高くなった車内
声を立てる人はいません
しーんとした車内で 思い出したように ポツリと話し声が・・
それもすぐに絶えてしまいます
長男が 友達の家のトラックを借りてきてくれました
そのお友達も 引越しのお手伝いをしてくれました
長男とお友達二人
このときばかりは 子供が男の子でよかったとしみじみ思いました
しかも 良いお友達に恵まれている事も
荷物は 8階から1階まで 運ぶんです
大きな冷蔵庫もタンスも何もかも運んでくれました
しかも 夜遅く
昼間は道が混んでいるので 夜中に走るんです
そのとき警官が
空き巣狙いと間違われかけたようでした
そのときは そうでもなかったんですが
後になって はらの立つこと
しかも 呼んだのが すぐ横にある壊れなかったマンションの住人
立場を変えると当たり前かもしれませんが
引っ越したくないのに引っ越さなければならない身には
荷物を全て積んだ後 息子たちは 山越えルートで走っていくんです
神戸はすぐ後ろが山ですから
もちろんかなりの遠回りです
引越し先には 前日のうちにご近所周りをして
事情を話し 夜中騒がせる事を 挨拶して回りました
震災後1月ほどしてから 出勤するようになったんですが
頭が変になるというか 精神的におかしくなると言うか
どう言えば良いんでしょうか
今まで住んでいた所は 家はつぶれ マンションも壊れ
それが当たり前の世界
ところが
電車に10分も乗ると 普通の世界
駅前のパチンコやで 昼間から パチンコしている人が・・・・
10分乗ると 壊滅状態の町
普通の世界と 壊滅状態の町を 往復していると
どちらが本当の世界で どちらかが虚構の世界のような
引っ越してから どれくらい経った時でしょう
そう 2週間くらい後だと思いますが
住み慣れた街中を 歩いていると
いろいろの事が 走馬灯のように頭の中をよぎります
あれも出来なかった
こうしてあげればよかった
あの時には・・・・・・・
自分の無力さ 私と言う存在の小ささ
歩きながら ふと気づくと 涙が
人気のない町の中を 一人で泣きながら歩いていました
私の中で 何かが 燃え尽きました
被害の無かった私でさえ いまだに震災を引きずっています
ご家族を亡くした方 被害を受けた方
はや十三年 まだ十三年
2008年1月20日日曜日
まだ続いています
震災の翌日 こんな事を言った人がいました
「早く引っ越し先を探さないと 無くなるよ」
さて誰でしょう??
翌日から 主人は知り合いの伝を頼り 家探しに行きました
放送係を機嫌よく やっていましたが 一週間位してかな?
教頭のおばちゃんが やってきました
要するに 私が勝手に 放送しているのが 気に入らないという事です
尋ね人はもちろん 水が来た 医者が来たと 何事につけても
私が連絡し 職員室を無視しているのが お気に召さなかったんでしょうね
でも私は リーダーに頼まれたことでもあり
根っからの 生まれつきの 世話焼き精神から やってるんですけどね
「じゃかっしい!!!!」
プツンと切れました
ブチッ!っとじゃないですよ
「ブチッ!」だったら 鉄パイプ片手に 職員室に殴り込みをかけてますから
「夜中に被災者を 追い出そうとしたり てめぇら それでも人間かぁ!」
以下略(私の人格を疑われるような 言語の連続攻撃ですから)
教頭は 口の中で 言分けしながら 帰って行きました
私の怒鳴り声で 廊下を通っている人が 不思議そうにこちらを見ながら 通り過ぎていきます
苦情を言いに来た教頭は 私に一方的に 怒鳴られて退散しました
「うーーーーん ストレス解消!!!」
皆さん 大きな声を出すのは ストレス解消に良いですよぉv(*^^)v
翌朝 又教頭が
「私が悪う御座いました」って?
「うるさい!出て行け!!!!」 !(^^)!
又腹を立てた 私は 部屋の戸を締め切り 仕事はせずに知らん顔
いつもは 目が覚めると 入り口の戸を開け放しているんです
どなたでも入って気安いように
でもリーダーの人が 困るというので 再開しました
リーダーは一生懸命してくださってるのに 困らせるのは本意ではありませんものね
でも それ以降 教頭は 部屋の前を通るとき 何故か 廊下の向こうの端を通るようになりました
それを見ながら 下の息子に
「私 廊下の真ん中に座ってようかな?」
「お母さん それはいじめやで(笑)」
もういっちょ 教師ネタ
夜 10時過ぎてたかなぁ?
どこかの奥さんが 子供が風邪を引いて 熱があるとこられました
(はぇ わたしゃ 医療係かぇ?)
後ろに ご主人らしい男の人も一緒に
「解熱剤をさしあげますから これを飲ませて 様子を見てください
もし何かあれば 何時でも良いですから もう一度来てください
ご相談に乗りますから・・・・」
薬を持って帰っていく 女の人の後姿を 見送るとも無く見送っていると
職員室の前で 男の人は 職員室に入っていくではありませんか!
女の人は一人で・・・・・・・
ここの学校の教師は
アホとバカの集団かぁーーーーーーー!
ついでにもういっちょ
自衛隊の医療班が 駐在するしないの話の時 教頭が
「夜中の急病人が出ましたが 救急車を呼んで・・・・・」
(えっ! 救急車??)
私は 寝ると起きない事にしている人なので 目ざとい主人に後で確かめました
「夜中に救急車なんて来たことある?」
「絶対 一度も無い!」
教師なんて うそつきだぁーーーーーー!
もともと 教師に対して 不信感を持っていた私は ますます教師嫌いに
言っておきますが すばらしい教師の方にもお会いしてますし
教師全部が 悪いなんて寸毫思っちゃいませんよ
しかし 出来の悪い教師は 人間としても最低の人間だ!
この意見は 変えんぞよ なんか文句あっか!
3週間ほど 避難所にいましたが
避難所を出て行く1週間か 10日ほど前に
中学生の男の子が私の交代要員として 放送室に来るようになりました
「まず ゆっくり話す事!」
「これくらい?」
「まだ はやーい!」
避難所には お年寄りが 沢山いらっしゃいます
話方が 早いと 聞き取れないんですよね
よくからかって遊んでいましたが しっかりした良い子でした
ある日 学校の先生が メモを持ってきて
これをそのまま放送してくれとのこと
病人さんを運ぶ為の 車の提供です
「このまま 読み上げても・・・
でも 読んでくださいってことだから」
彼に放送させました(上手いんですよ)
しばらくして すぐそばが 保健室なので
部屋から首を突き出していると 保健室に出入りしている人が
「どなたか 車の提供ありました?」
「いえ まだどなたも」
「まだ誰も来てないみたい では 大先生様が やってみるか!」
(冗談で 私 自分のことを「大先生」って言ってたんです)
放送内容は メモとほどんど変わらないンですけどネ
それから 30分後
「誰か 来ました?」
「おかげさまで・・・」
「ふん さすが大先生様だろ!!!」
二人で そんな事で 遊んでいました
私が避難所を出て 数日後 ばったり彼と会いました
なんか元気がありません
「僕 引っ越す事になりました
徳島市から まだバスで ずーっと山に入ったとこ・・・」
それが最後で 二度と会う事がありませんでした
“ケンタロー”と言う名前だけしかわかりません
震災から もう10年
彼も大学を出て 社会人になっている年です
どうしてるんかな?
おーい 元気にしてるかぁ
けんたろーーーーーー!
「早く引っ越し先を探さないと 無くなるよ」
さて誰でしょう??
翌日から 主人は知り合いの伝を頼り 家探しに行きました
放送係を機嫌よく やっていましたが 一週間位してかな?
教頭のおばちゃんが やってきました
要するに 私が勝手に 放送しているのが 気に入らないという事です
尋ね人はもちろん 水が来た 医者が来たと 何事につけても
私が連絡し 職員室を無視しているのが お気に召さなかったんでしょうね
でも私は リーダーに頼まれたことでもあり
根っからの 生まれつきの 世話焼き精神から やってるんですけどね
「じゃかっしい!!!!」
プツンと切れました
ブチッ!っとじゃないですよ
「ブチッ!」だったら 鉄パイプ片手に 職員室に殴り込みをかけてますから
「夜中に被災者を 追い出そうとしたり てめぇら それでも人間かぁ!」
以下略(私の人格を疑われるような 言語の連続攻撃ですから)
教頭は 口の中で 言分けしながら 帰って行きました
私の怒鳴り声で 廊下を通っている人が 不思議そうにこちらを見ながら 通り過ぎていきます
苦情を言いに来た教頭は 私に一方的に 怒鳴られて退散しました
「うーーーーん ストレス解消!!!」
皆さん 大きな声を出すのは ストレス解消に良いですよぉv(*^^)v
翌朝 又教頭が
「私が悪う御座いました」って?
「うるさい!出て行け!!!!」 !(^^)!
又腹を立てた 私は 部屋の戸を締め切り 仕事はせずに知らん顔
いつもは 目が覚めると 入り口の戸を開け放しているんです
どなたでも入って気安いように
でもリーダーの人が 困るというので 再開しました
リーダーは一生懸命してくださってるのに 困らせるのは本意ではありませんものね
でも それ以降 教頭は 部屋の前を通るとき 何故か 廊下の向こうの端を通るようになりました
それを見ながら 下の息子に
「私 廊下の真ん中に座ってようかな?」
「お母さん それはいじめやで(笑)」
もういっちょ 教師ネタ
夜 10時過ぎてたかなぁ?
どこかの奥さんが 子供が風邪を引いて 熱があるとこられました
(はぇ わたしゃ 医療係かぇ?)
後ろに ご主人らしい男の人も一緒に
「解熱剤をさしあげますから これを飲ませて 様子を見てください
もし何かあれば 何時でも良いですから もう一度来てください
ご相談に乗りますから・・・・」
薬を持って帰っていく 女の人の後姿を 見送るとも無く見送っていると
職員室の前で 男の人は 職員室に入っていくではありませんか!
女の人は一人で・・・・・・・
ここの学校の教師は
アホとバカの集団かぁーーーーーーー!
ついでにもういっちょ
自衛隊の医療班が 駐在するしないの話の時 教頭が
「夜中の急病人が出ましたが 救急車を呼んで・・・・・」
(えっ! 救急車??)
私は 寝ると起きない事にしている人なので 目ざとい主人に後で確かめました
「夜中に救急車なんて来たことある?」
「絶対 一度も無い!」
教師なんて うそつきだぁーーーーーー!
もともと 教師に対して 不信感を持っていた私は ますます教師嫌いに
言っておきますが すばらしい教師の方にもお会いしてますし
教師全部が 悪いなんて寸毫思っちゃいませんよ
しかし 出来の悪い教師は 人間としても最低の人間だ!
この意見は 変えんぞよ なんか文句あっか!
3週間ほど 避難所にいましたが
避難所を出て行く1週間か 10日ほど前に
中学生の男の子が私の交代要員として 放送室に来るようになりました
「まず ゆっくり話す事!」
「これくらい?」
「まだ はやーい!」
避難所には お年寄りが 沢山いらっしゃいます
話方が 早いと 聞き取れないんですよね
よくからかって遊んでいましたが しっかりした良い子でした
ある日 学校の先生が メモを持ってきて
これをそのまま放送してくれとのこと
病人さんを運ぶ為の 車の提供です
「このまま 読み上げても・・・
でも 読んでくださいってことだから」
彼に放送させました(上手いんですよ)
しばらくして すぐそばが 保健室なので
部屋から首を突き出していると 保健室に出入りしている人が
「どなたか 車の提供ありました?」
「いえ まだどなたも」
「まだ誰も来てないみたい では 大先生様が やってみるか!」
(冗談で 私 自分のことを「大先生」って言ってたんです)
放送内容は メモとほどんど変わらないンですけどネ
それから 30分後
「誰か 来ました?」
「おかげさまで・・・」
「ふん さすが大先生様だろ!!!」
二人で そんな事で 遊んでいました
私が避難所を出て 数日後 ばったり彼と会いました
なんか元気がありません
「僕 引っ越す事になりました
徳島市から まだバスで ずーっと山に入ったとこ・・・」
それが最後で 二度と会う事がありませんでした
“ケンタロー”と言う名前だけしかわかりません
震災から もう10年
彼も大学を出て 社会人になっている年です
どうしてるんかな?
おーい 元気にしてるかぁ
けんたろーーーーーー!
2008年1月19日土曜日
学校に居る間 いろんなことがありました
学校にいる間 いろんなことをさせていただきました
学校のすぐそばに 市営住宅がありました
市営住宅といっても 十二階建てだったかなぁ
ともかく大きな建物が 2棟 L字型に建っていました
Lと言っても 隣の棟とは 短い渡り廊下で結ばれていたんですが
東西に建っていた建物が 南北に立っていた棟に 倒れ掛かっているんです
最近では どこでもそうかも知れませんが お年寄りの方が沢山住んでいました
市営住宅を出されると 行く所がないというんで
えーーーと どう書いたっけ
「市営住宅連絡協議会」と言うような 看板を書いてくれと
板切れを 持って来られました
「はぁ 私が書くんですかぁ」と叫びつつ 書きましたけれどね
それも 私の仕事?
放送が出来るようになると 尋ね人の呼び出しが ぞくぞくと
一度に 大勢の方の名前を聞いても 無理なので
5人ずつ まとめて呼び出しました
「○○町の△△さん *****さんがお見えです」を5人分
「○○町の△△さん ××通りの###さん・・・・・いらっしゃいましたら 放送室前までお越しください」
周りが ざわついてうるさいので 大声で
「お呼びした方は 廊下の向こう側で お待ちください はい 次の方」
「~~の@@@さんで判りますか?・・・・・・」
五人たまると「少々お待ちください」ここまで 大声
マイクの前に立つと 人の変わったような 静かな声で「なんとか町の・・」
又大声で
それの繰り返し
その合間に 後ろから「医者はどこに・・・?」と言う 居住者?からの問い合わせ
「お医者さんは その廊下を・・・・」と大声
「すいません ここ以外に 避難所は?」
「はい この南側の スポーツセンターと あと周りの駐車場の車にいらっしゃる方も 学校でしたら この下の道を 西にしばらく行くと
もう一つ小学校が・・」と大声
「ここにいる人の名前は そちらのロビーに・・・」と大声
その繰り返しで 夜になると 私の美声が しゃがれて出ないヨーー!
早い時は 朝6時ごろから がらがらと戸が開いて「呼び出してもらえますか?」
夜は 十時頃まで「呼んで欲しいんですが・・・」
さすがに 夜遅くは「申し訳ありませんが・・・」と断りましたけどね
1週間もたつと 少し落ち着いてきて 尋ね人を待っている方とお話しすることも
高校の先生と
「生徒なんですが 子供が生まれて 前の日に家に帰ってきたんですよ
奥さんのお母さんが 手伝いに来ていて・・・
奥さんと子供とお義母さんの3人が亡くなったんです」
いろんな方とお話しましたが この話だけは 忘れられません
長男から 後で聞いた話
「みんなあわてて逃げたやろ 玄関開けっ放しのままやから
自転車用のチェーンの鍵 買うて つけて歩いてきた」
お友達のおうちに 鍵をつけて歩いたらしいです
「壊れた家に 人がたかってるから 寄っていったら
埋もれたままの人がいる 言うんで 手伝うた
あちらこちらで 何人か 引っ張り出したけど 3人ほど死んだ」
「ちょっと 死んだ は無いでしょ」おかんとしては 言葉遣いチェック!
「掘り出すまでは “うーん”て声聞こえててんけどなぁ
引っ張り出したら 死んでた」
同じ状況にあっても 下の子は
「埋もれた人を 掘り出してたけど 大人の人が ぎょうさんおったし
邪魔になるだけやから 其処から離れた」
状況判断が しっかりしていると言うか なんというか・・
下の子も 手伝う必要があると判断すれば やるんですが
兄弟でも 反応が違うもんです
まあ 長男は誰に似たのか ちょっと(かなり?)世話焼き?!
避難所の中も リーダーが出来 少しづつ 落ち着いてきました
頼っていく所のある人は 出て行き 余裕が出来てきました
自衛隊が 水をタンクで 運んできてくれるようになりましたし
食料品も コンスタントに 届くようになりました
放送室も 尋ね人の放送も減っていき のんびりとしてきました
そうそう 自衛隊の車が入らないと言うんで 校庭に止めてあった車を
動かす事になりました
リーダーに頼まれ お手伝いのボランティアを 集めることに
マイクに向かい 丁寧に心をこめて
「オネガイ テツダッテ!」と言う 感情こめた放送のお陰で???
何人か 集合してくださいました
いざとなれば 知らないもの同士 助け合うんですよね
車ですか? 持ち主が 見つからないのか みんなで力を合わせ
持ち上げて 移動です 重いやろナァ
自衛隊の水のタンク 幌をかけた大きなトラックが ひいてくるんです
それの横で 下の子と
「ねぇ このトラックの中 幌を開けると 何が入ってるんだろ?」
「鉄砲とか バズーカ砲とか・・・」
「そんなもんなら良いけど 自衛隊員が 座ってたら怖いでぇ
幌開けたら 一斉に こっちをにらんだりして・・」
「ん! それ 怖いなぁ」
トイレでたまたま お年寄りと一緒の女の方を見かけました
おばあちゃま 足が不自由らしく 歩きにくそう
私「おんぶしましょうか?」
胸を打ったらしく 痛いとのことで おんぶできないので
付き添いの女の方と おばあちゃまを支えて すぐそばの教室へ
そんなご縁で お話しするようになったのですが
その女の方は 70歳(過ぎてたかも)寝たきりのご主人は88歳
おばあちゃまは 母親とのことで 99歳
今年 白寿のお祝いをする事になっていたそうです
おばあちゃまもそのときは お元気で お祝いの時 踊りを披露するんだなんて お話をしていたんですが
一週間ほどすると はっきり言えば ボケたんでしょうね
目がうつろで 焦点が合わず 話かけても 返事が無い
でも 女の人は いつでも明るく お元気なんです
その後 寝たきりのお年寄り等を 何人か施設に引き取ってくれるとの話が
ちょうど 相談している時に行き合わせ 大声で その方たちの名前を
横で連呼し続けました
そのせいではないでしょうが 2~3日後 女の方にお会いすると
おばあちゃまも寝たきりのご主人も 引き取ってもらえたと・・・
さすがに ほっとしたような 肩の荷をおろしたと言うような
明るい表情で 教えてくださいました
正直 あのお二人を抱えていては 何一つ出来なかったでしょうからね
学校のすぐそばに 市営住宅がありました
市営住宅といっても 十二階建てだったかなぁ
ともかく大きな建物が 2棟 L字型に建っていました
Lと言っても 隣の棟とは 短い渡り廊下で結ばれていたんですが
東西に建っていた建物が 南北に立っていた棟に 倒れ掛かっているんです
最近では どこでもそうかも知れませんが お年寄りの方が沢山住んでいました
市営住宅を出されると 行く所がないというんで
えーーーと どう書いたっけ
「市営住宅連絡協議会」と言うような 看板を書いてくれと
板切れを 持って来られました
「はぁ 私が書くんですかぁ」と叫びつつ 書きましたけれどね
それも 私の仕事?
放送が出来るようになると 尋ね人の呼び出しが ぞくぞくと
一度に 大勢の方の名前を聞いても 無理なので
5人ずつ まとめて呼び出しました
「○○町の△△さん *****さんがお見えです」を5人分
「○○町の△△さん ××通りの###さん・・・・・いらっしゃいましたら 放送室前までお越しください」
周りが ざわついてうるさいので 大声で
「お呼びした方は 廊下の向こう側で お待ちください はい 次の方」
「~~の@@@さんで判りますか?・・・・・・」
五人たまると「少々お待ちください」ここまで 大声
マイクの前に立つと 人の変わったような 静かな声で「なんとか町の・・」
又大声で
それの繰り返し
その合間に 後ろから「医者はどこに・・・?」と言う 居住者?からの問い合わせ
「お医者さんは その廊下を・・・・」と大声
「すいません ここ以外に 避難所は?」
「はい この南側の スポーツセンターと あと周りの駐車場の車にいらっしゃる方も 学校でしたら この下の道を 西にしばらく行くと
もう一つ小学校が・・」と大声
「ここにいる人の名前は そちらのロビーに・・・」と大声
その繰り返しで 夜になると 私の美声が しゃがれて出ないヨーー!
早い時は 朝6時ごろから がらがらと戸が開いて「呼び出してもらえますか?」
夜は 十時頃まで「呼んで欲しいんですが・・・」
さすがに 夜遅くは「申し訳ありませんが・・・」と断りましたけどね
1週間もたつと 少し落ち着いてきて 尋ね人を待っている方とお話しすることも
高校の先生と
「生徒なんですが 子供が生まれて 前の日に家に帰ってきたんですよ
奥さんのお母さんが 手伝いに来ていて・・・
奥さんと子供とお義母さんの3人が亡くなったんです」
いろんな方とお話しましたが この話だけは 忘れられません
長男から 後で聞いた話
「みんなあわてて逃げたやろ 玄関開けっ放しのままやから
自転車用のチェーンの鍵 買うて つけて歩いてきた」
お友達のおうちに 鍵をつけて歩いたらしいです
「壊れた家に 人がたかってるから 寄っていったら
埋もれたままの人がいる 言うんで 手伝うた
あちらこちらで 何人か 引っ張り出したけど 3人ほど死んだ」
「ちょっと 死んだ は無いでしょ」おかんとしては 言葉遣いチェック!
「掘り出すまでは “うーん”て声聞こえててんけどなぁ
引っ張り出したら 死んでた」
同じ状況にあっても 下の子は
「埋もれた人を 掘り出してたけど 大人の人が ぎょうさんおったし
邪魔になるだけやから 其処から離れた」
状況判断が しっかりしていると言うか なんというか・・
下の子も 手伝う必要があると判断すれば やるんですが
兄弟でも 反応が違うもんです
まあ 長男は誰に似たのか ちょっと(かなり?)世話焼き?!
避難所の中も リーダーが出来 少しづつ 落ち着いてきました
頼っていく所のある人は 出て行き 余裕が出来てきました
自衛隊が 水をタンクで 運んできてくれるようになりましたし
食料品も コンスタントに 届くようになりました
放送室も 尋ね人の放送も減っていき のんびりとしてきました
そうそう 自衛隊の車が入らないと言うんで 校庭に止めてあった車を
動かす事になりました
リーダーに頼まれ お手伝いのボランティアを 集めることに
マイクに向かい 丁寧に心をこめて
「オネガイ テツダッテ!」と言う 感情こめた放送のお陰で???
何人か 集合してくださいました
いざとなれば 知らないもの同士 助け合うんですよね
車ですか? 持ち主が 見つからないのか みんなで力を合わせ
持ち上げて 移動です 重いやろナァ
自衛隊の水のタンク 幌をかけた大きなトラックが ひいてくるんです
それの横で 下の子と
「ねぇ このトラックの中 幌を開けると 何が入ってるんだろ?」
「鉄砲とか バズーカ砲とか・・・」
「そんなもんなら良いけど 自衛隊員が 座ってたら怖いでぇ
幌開けたら 一斉に こっちをにらんだりして・・」
「ん! それ 怖いなぁ」
トイレでたまたま お年寄りと一緒の女の方を見かけました
おばあちゃま 足が不自由らしく 歩きにくそう
私「おんぶしましょうか?」
胸を打ったらしく 痛いとのことで おんぶできないので
付き添いの女の方と おばあちゃまを支えて すぐそばの教室へ
そんなご縁で お話しするようになったのですが
その女の方は 70歳(過ぎてたかも)寝たきりのご主人は88歳
おばあちゃまは 母親とのことで 99歳
今年 白寿のお祝いをする事になっていたそうです
おばあちゃまもそのときは お元気で お祝いの時 踊りを披露するんだなんて お話をしていたんですが
一週間ほどすると はっきり言えば ボケたんでしょうね
目がうつろで 焦点が合わず 話かけても 返事が無い
でも 女の人は いつでも明るく お元気なんです
その後 寝たきりのお年寄り等を 何人か施設に引き取ってくれるとの話が
ちょうど 相談している時に行き合わせ 大声で その方たちの名前を
横で連呼し続けました
そのせいではないでしょうが 2~3日後 女の方にお会いすると
おばあちゃまも寝たきりのご主人も 引き取ってもらえたと・・・
さすがに ほっとしたような 肩の荷をおろしたと言うような
明るい表情で 教えてくださいました
正直 あのお二人を抱えていては 何一つ出来なかったでしょうからね
2008年1月18日金曜日
翌朝 起きてもすることは なーーもなし!
ふとんを リュックに詰め ダンボールを横の隙間に片付け
箒でちょこちょこっとはいておしまい
学校の横にある 社宅の水槽にある水を 配ると言うので 並んでもらいにいったり・・・・
そうそう 前の晩 10時頃だったと記憶していますが
外で 女の人の声が
なんでも 食料等の援助物資が 来たので どこかの部屋を 空ける様にいっています
もちろん 部屋の人は出て行こうとしません
その部屋から出て行けば 後行く所がないんですから
あとで判った事ですが その立ち退きを命じていたのは
この小学校の 教頭でした
このおばちゃんは 又あとで出てきます
でも そのときの話書きたくないなぁ
だって 私の本性丸出しだから
折角 今まで良い人ぶりっ子してたのにぃ・・・・
翌日 確かに たくさんの物資が届いていました
それを 配っていたので 私も手伝いましたが
そのときは まだ 中心になって指揮をする人がいなかったので
並ぶ人は 延々と続いているし・・・・・・
混乱のきわみでした
そんな時 一人のお年を召した女の人が
「こんなに 並んでいるんですね 私足が悪いから 無理ですわ」と 帰ろうとされるので その方を追いかけ 品物をお渡ししました
横にいた 若いニーチャンに変な顔されましたけど ね
「ふん! なんか文句あっか!!」の人ですから 私
皆さん おとなしく 受け取られるんですが 中には
「お前ら 偉そうにしたくて やってんのやろ!」と わめくおっさんが
「あほか 一銭になるわけやなし 第一みんな渡すのに忙しくて 自分たちは 何も口にしてないんだぞ」と 心で叫んでいました
そのおっちゃん 向こうの方にいたから
私に言ったんなら 言い返していたかも・・・・・・・
手渡した物資は バナナ 牛乳 あと何があったかな?
そうそう 魚肉ソーセージ3本組 缶ジュース等でしたね
翌日くらいから リーダー役の人が 出てきてくれましたが
上の息子は 友達の安否確認等で 走り回り おしまいには どこか友達の家に泊めてもらい 夕方一度 顔を出すだけになりました
そのとき 頼んでおけば 何でも買った来てくれるので 我が家は 不自由な事は ありませんでした
震災の翌日から ビール飲んでました うちの旦那!
スポーツ系だった息子の友達は やはり ズータイのデカイ連中が多く 彼らが 隊列を組んで買い物をすると 周りの人は 引いたそうです
あったりめーだろが!
でも 感謝!
その日か翌日だったかもしれませんが 主人の知り合いが 学校に避難している人たちに 名前等を書いてもらったものを 持って来ました
それを 主人と3人で 大きな紙に書き写し 学校のロビーに貼り出しました
このあたり 記憶が混乱しています
その名簿を 私 職員室に取りにいったような・・・・
名簿が 職員室の部屋の隅に 小さな箱に入れられ 放り出されているのを 覚えています
数が足りないので 職員室に聴きに行くと
「預かったのは 全て其処に入れてある」とそっけない返事をされましたねぇ
2日目の事かなぁ?
たまたま 校庭に出て行く 入り口に立ってると おじいさんが
「年寄りにも 仕事をさせないと ここにおりにくいやろ」と
つぶやいています
「おりにくいやろ? なんつーことをぬかすんじゃ このくそじじい!」
と わたくし上品に 思考をめぐらした事がありましたが
そのじいさま 校長だったんです
そうと知っていたら 2~3発 殴っといたんですが 残念!
こういう 異常事態のとき 本当にその人の 人柄が出てくるものです
私の場合 いつもより ちょっと上品になっておりますが
こう言う校長に率いられた 学校は教師もひどいものだし 対応もひどいものです
これは おいおい出てくると思います
覚えているようでも 時間の経過が はっきりしません
話が前後して 読みにくくなるかもしれませんが ご容赦!
2日めに 大きな余震が・・・・
学校中に 悲鳴が上がりました
私は 天井の蛍光灯が 落ちてこないか 見上げていました
でも 蛍光灯は 天井にしっかり張り付いているタイプで
落ちてくる事は ありませんでした
皆さんは 歩道橋が 揺れるのごぞんじですか?
特に 下を大きな車が通ったりすると 揺れるんです
震災後 気づきました
もちろんそれまででも 揺れていたんでしょうが
震災後は 揺れに非常に敏感になりました
3日目「キンデン」(電気工事の会社)の人が来て
電気がつくようになりました
明るいと言う事が こんなにも 気持ちを落ち着かせるものかと 驚きました
電気で明るい生活 ありがたいものです
さて 避けて通れないのが 下ネタです
そう トイレです
私の入っているのは 放送室
隣が校長室と職員室 反対側が保健室 向かいは給食室
給食室の隣に一部屋あり 次がトイレ
初日は そのトイレ 全員が使ってました もちろん
しかし 学校側が教職員用トイレのみ使用停止にしたんです
教職員用は使うなと言う事のようですね
このあたりの 詳しい事情は 知りませんが・・・・
トイレの外に 使用禁止の張り紙が
その前に被災者の人たちが 掃除してましたねぇ
水の流れない水洗トイレ(ご想像に任せます)
個人宅でも 事情は一緒です
あるおうちで 傍を流れる川の水をトイレに利用していたんですって
川の水を 水のタンクに入れて 使用していると
しばらくして 水が出なくなりました
ここで問題
どうして水が 出てこなくなったんでしょう
答え
タンクの中に 水草が はえたから
水の中に 水草の種でも混じっていたんだろうと言う事です
学校のトイレに戻ります
幸い プールに水があったので それを使って それまで使いっぱなしのトイレの掃除をしました
水はバケツリレーで運ぶんですよ
トイレの水は バケツに水を入れておき 大のときのみ使用
トイレを出てから 手を洗うと言う作業が こんなに大変なものとは
バケツを眺めて 一番きれいそうな水で 洗ったんですけれどねぇ
まず 「きれい」の基準を どこにおくかですよ
トイレに行く途中に 御遺体安置室が ありました
それがどうした ですね
たとえ 夜に行く時でも
カーテンの隙間から 部屋の中を 覗いた奴もいるんですから
えっ!誰かって? わかってるくせに
学校の教師の中にも 良い人はいました
若い先生で 放送担当だった人です
電気が通じれば 放送設備が 使えます
使い方を こっそり?教えてくれました
その人は 教師になる前に 企業で働いていたと 聞いた様な気が
夜 我が家(放送室)に来て 話をした事がありますが
自宅がつぶれ 親を車に乗せて 大阪だったかな
知り合いの家に 預けにいったそうです
そのとき 学校の傍を通りかかり 学校に行かねばならない時なのに
そう悩んだと そんな先生もいるんですよね
放送設備が使えれば 元放送委員(小中学生のとき)としては 張り切らなくては
「おまかせ!」
放送室にいるせいか 問い合わせが多いんです
「ここ以外に 避難所はどこに?」
「遺体はどこに 運ばれたんでしょう」
3日もすると 安否を尋ねてくる人が だんだん増えて来るんです
さて 私がした仕事は
1、放送での連絡(水 食糧配給)
2、尋ね人の呼び出し
3、各種問い合わせ
4、夜中の病人の相手
5、教頭のおばはんと喧嘩
6、世話焼き
7、おしゃべり(情報収集????)
位だったでしょうか
ふとんを リュックに詰め ダンボールを横の隙間に片付け
箒でちょこちょこっとはいておしまい
学校の横にある 社宅の水槽にある水を 配ると言うので 並んでもらいにいったり・・・・
そうそう 前の晩 10時頃だったと記憶していますが
外で 女の人の声が
なんでも 食料等の援助物資が 来たので どこかの部屋を 空ける様にいっています
もちろん 部屋の人は出て行こうとしません
その部屋から出て行けば 後行く所がないんですから
あとで判った事ですが その立ち退きを命じていたのは
この小学校の 教頭でした
このおばちゃんは 又あとで出てきます
でも そのときの話書きたくないなぁ
だって 私の本性丸出しだから
折角 今まで良い人ぶりっ子してたのにぃ・・・・
翌日 確かに たくさんの物資が届いていました
それを 配っていたので 私も手伝いましたが
そのときは まだ 中心になって指揮をする人がいなかったので
並ぶ人は 延々と続いているし・・・・・・
混乱のきわみでした
そんな時 一人のお年を召した女の人が
「こんなに 並んでいるんですね 私足が悪いから 無理ですわ」と 帰ろうとされるので その方を追いかけ 品物をお渡ししました
横にいた 若いニーチャンに変な顔されましたけど ね
「ふん! なんか文句あっか!!」の人ですから 私
皆さん おとなしく 受け取られるんですが 中には
「お前ら 偉そうにしたくて やってんのやろ!」と わめくおっさんが
「あほか 一銭になるわけやなし 第一みんな渡すのに忙しくて 自分たちは 何も口にしてないんだぞ」と 心で叫んでいました
そのおっちゃん 向こうの方にいたから
私に言ったんなら 言い返していたかも・・・・・・・
手渡した物資は バナナ 牛乳 あと何があったかな?
そうそう 魚肉ソーセージ3本組 缶ジュース等でしたね
翌日くらいから リーダー役の人が 出てきてくれましたが
上の息子は 友達の安否確認等で 走り回り おしまいには どこか友達の家に泊めてもらい 夕方一度 顔を出すだけになりました
そのとき 頼んでおけば 何でも買った来てくれるので 我が家は 不自由な事は ありませんでした
震災の翌日から ビール飲んでました うちの旦那!
スポーツ系だった息子の友達は やはり ズータイのデカイ連中が多く 彼らが 隊列を組んで買い物をすると 周りの人は 引いたそうです
あったりめーだろが!
でも 感謝!
その日か翌日だったかもしれませんが 主人の知り合いが 学校に避難している人たちに 名前等を書いてもらったものを 持って来ました
それを 主人と3人で 大きな紙に書き写し 学校のロビーに貼り出しました
このあたり 記憶が混乱しています
その名簿を 私 職員室に取りにいったような・・・・
名簿が 職員室の部屋の隅に 小さな箱に入れられ 放り出されているのを 覚えています
数が足りないので 職員室に聴きに行くと
「預かったのは 全て其処に入れてある」とそっけない返事をされましたねぇ
2日目の事かなぁ?
たまたま 校庭に出て行く 入り口に立ってると おじいさんが
「年寄りにも 仕事をさせないと ここにおりにくいやろ」と
つぶやいています
「おりにくいやろ? なんつーことをぬかすんじゃ このくそじじい!」
と わたくし上品に 思考をめぐらした事がありましたが
そのじいさま 校長だったんです
そうと知っていたら 2~3発 殴っといたんですが 残念!
こういう 異常事態のとき 本当にその人の 人柄が出てくるものです
私の場合 いつもより ちょっと上品になっておりますが
こう言う校長に率いられた 学校は教師もひどいものだし 対応もひどいものです
これは おいおい出てくると思います
覚えているようでも 時間の経過が はっきりしません
話が前後して 読みにくくなるかもしれませんが ご容赦!
2日めに 大きな余震が・・・・
学校中に 悲鳴が上がりました
私は 天井の蛍光灯が 落ちてこないか 見上げていました
でも 蛍光灯は 天井にしっかり張り付いているタイプで
落ちてくる事は ありませんでした
皆さんは 歩道橋が 揺れるのごぞんじですか?
特に 下を大きな車が通ったりすると 揺れるんです
震災後 気づきました
もちろんそれまででも 揺れていたんでしょうが
震災後は 揺れに非常に敏感になりました
3日目「キンデン」(電気工事の会社)の人が来て
電気がつくようになりました
明るいと言う事が こんなにも 気持ちを落ち着かせるものかと 驚きました
電気で明るい生活 ありがたいものです
さて 避けて通れないのが 下ネタです
そう トイレです
私の入っているのは 放送室
隣が校長室と職員室 反対側が保健室 向かいは給食室
給食室の隣に一部屋あり 次がトイレ
初日は そのトイレ 全員が使ってました もちろん
しかし 学校側が教職員用トイレのみ使用停止にしたんです
教職員用は使うなと言う事のようですね
このあたりの 詳しい事情は 知りませんが・・・・
トイレの外に 使用禁止の張り紙が
その前に被災者の人たちが 掃除してましたねぇ
水の流れない水洗トイレ(ご想像に任せます)
個人宅でも 事情は一緒です
あるおうちで 傍を流れる川の水をトイレに利用していたんですって
川の水を 水のタンクに入れて 使用していると
しばらくして 水が出なくなりました
ここで問題
どうして水が 出てこなくなったんでしょう
答え
タンクの中に 水草が はえたから
水の中に 水草の種でも混じっていたんだろうと言う事です
学校のトイレに戻ります
幸い プールに水があったので それを使って それまで使いっぱなしのトイレの掃除をしました
水はバケツリレーで運ぶんですよ
トイレの水は バケツに水を入れておき 大のときのみ使用
トイレを出てから 手を洗うと言う作業が こんなに大変なものとは
バケツを眺めて 一番きれいそうな水で 洗ったんですけれどねぇ
まず 「きれい」の基準を どこにおくかですよ
トイレに行く途中に 御遺体安置室が ありました
それがどうした ですね
たとえ 夜に行く時でも
カーテンの隙間から 部屋の中を 覗いた奴もいるんですから
えっ!誰かって? わかってるくせに
学校の教師の中にも 良い人はいました
若い先生で 放送担当だった人です
電気が通じれば 放送設備が 使えます
使い方を こっそり?教えてくれました
その人は 教師になる前に 企業で働いていたと 聞いた様な気が
夜 我が家(放送室)に来て 話をした事がありますが
自宅がつぶれ 親を車に乗せて 大阪だったかな
知り合いの家に 預けにいったそうです
そのとき 学校の傍を通りかかり 学校に行かねばならない時なのに
そう悩んだと そんな先生もいるんですよね
放送設備が使えれば 元放送委員(小中学生のとき)としては 張り切らなくては
「おまかせ!」
放送室にいるせいか 問い合わせが多いんです
「ここ以外に 避難所はどこに?」
「遺体はどこに 運ばれたんでしょう」
3日もすると 安否を尋ねてくる人が だんだん増えて来るんです
さて 私がした仕事は
1、放送での連絡(水 食糧配給)
2、尋ね人の呼び出し
3、各種問い合わせ
4、夜中の病人の相手
5、教頭のおばはんと喧嘩
6、世話焼き
7、おしゃべり(情報収集????)
位だったでしょうか
2008年1月17日木曜日
また17日がやってきました
家にいても ガス 水道 電気等全てのライフラインが使用出来ません
後で知ったことですが
地震が収まってすぐ 管理人さんが全て元を切ったそうです
ベランダから 外を見ると すぐそばに小学校があり
朝 明るくなると ぞくぞくと 校庭に集まっている人々がいます
最初は 校庭の地面の上に
布団を引いて横になっている人が・・・・
私たちも 午後3時ごろ 小学校に避難することにしました
大きなリュックに 夏布団を全て入れ
とりあえず 私が一番に出発しました
小学校の中に入ると 廊下にまで布団を引いています
もちろん教室の中は 満員
これは困ったと思いながら歩いていると
「放送室」
小中学校と 放送委員をしていた私には懐かしい場所!
戸のガラスの端が 少し欠けていたので 覗きこみました
もちろん 棚は倒れ すごい有様
でも よく見ると 倒れた棚の向こう側
窓の傍に空いたところが・・・・・
部屋の中に入り 倒れた棚を乗り越え 窓の所まで行くと
3畳分くらいの隙間が ありました
ラッキー!
教室用においてある 箒で軽く掃除
邪魔なものは 棚の下に 蹴り込み 失礼 片付け
大人4人が 寝るには十分な 場所が確保出来ました
あとから 主人と下の息子が・・・
この 放送室と言う選択 ベリーグッ!でした
入り口入ってすぐは 畳一帖ほどの隙間しかありません
真ん中は 倒れた棚 唯一残っている隙間は
我が家が 占拠!
要するに 個室状態なんです
主人たちに 留守番をさせ 私は他のものを取りに家に戻りました
階段で 8階まで
「とことことこ フー とことことこ フー」を繰り返してね
ようやく 8階にたどり着き 残っていた食パン 梅干 味付け海苔
ろうそく等 思いつくままに リュックにつめ また下まで降りました
部屋の外の廊下 隙間を詰めていた コーキング剤がはずれ
下までストーンと丸見え
そこはほんの数センチなんですが 崩れそうで ちょっとスリル!
学校に帰ると 食糧配給の連絡
とりあえず 校庭に並んでいると 渡されたのは 小さなおにぎりが3個入ったパック
しかも それを2軒で分けるように・・・・・
2個をパックに入れたまま 隣の若い女性に渡し
1個を つまんで 部屋に帰り 息子に
「口開けて」
「なんやこれ?」
「食糧配給 終了!」
しかし 落ち着いているつもり 普段どおりだと 自分では思っていましたが
やはり 精神はHIになってたんですね
空腹を感じないんです 何日間かろくに 食べなくても
誰ですか!普段のたくわえが すごいからって言うのは
んーーーまぁ それもあるかも・・・・
する事も無く 時間だけが過ぎ ラジオは聞いていましたが
流れるニュースに代わり映えは無し・・・
夜になり下の息子をお供に 散歩開始
古いアパートの一階が潰れ 二階が道路に飛び出し通れないところがありました
国道(2号線)では 長距離トラックが 何台も渋滞中
まさか 43号線が崩れて走れなくなってるなんて その時はわかりませんでしてから
「ぎょうさん 車が並んでるねぇ」
国道沿いの 入院施設のある病院が 崩れ 道路にはみだした瓦礫を
サーチライトで照らしながら 排除作業中
酒屋の前に ダンボールが落ちているのを お土産に学校へ
どうして ダンボールがお土産か わかりますか??
ダンボールとか紙はすぐれた 断熱材なんですよ
避難した放送室は 薄いけれど絨毯がひいてありました
放送中音がしないようにでしょうね
でも その下は コンクリート 冷えが染みとおってきます
でも ダンボールをひくと 暖かーーーい!
お兄ちゃんが
「避難所に行くなら メモ残しといてくれ!どこいったか探した」と
文句ブーブーで現れ 無事家族集合!
これで 我が家の震災は終了!
どんな所 どんな時でも 家族が無事で 暖かく寝られたら それで十分です
教訓
ダンボールは優れた断熱材
普段から 酒屋 スーパー等ダンボールがあるところをチェック!
ろうそくは 一番太いものを用意する事
懐中電灯と違って ろうそくの明かりは 暖かい炎です
後で知ったことですが
地震が収まってすぐ 管理人さんが全て元を切ったそうです
ベランダから 外を見ると すぐそばに小学校があり
朝 明るくなると ぞくぞくと 校庭に集まっている人々がいます
最初は 校庭の地面の上に
布団を引いて横になっている人が・・・・
私たちも 午後3時ごろ 小学校に避難することにしました
大きなリュックに 夏布団を全て入れ
とりあえず 私が一番に出発しました
小学校の中に入ると 廊下にまで布団を引いています
もちろん教室の中は 満員
これは困ったと思いながら歩いていると
「放送室」
小中学校と 放送委員をしていた私には懐かしい場所!
戸のガラスの端が 少し欠けていたので 覗きこみました
もちろん 棚は倒れ すごい有様
でも よく見ると 倒れた棚の向こう側
窓の傍に空いたところが・・・・・
部屋の中に入り 倒れた棚を乗り越え 窓の所まで行くと
3畳分くらいの隙間が ありました
ラッキー!
教室用においてある 箒で軽く掃除
邪魔なものは 棚の下に 蹴り込み 失礼 片付け
大人4人が 寝るには十分な 場所が確保出来ました
あとから 主人と下の息子が・・・
この 放送室と言う選択 ベリーグッ!でした
入り口入ってすぐは 畳一帖ほどの隙間しかありません
真ん中は 倒れた棚 唯一残っている隙間は
我が家が 占拠!
要するに 個室状態なんです
主人たちに 留守番をさせ 私は他のものを取りに家に戻りました
階段で 8階まで
「とことことこ フー とことことこ フー」を繰り返してね
ようやく 8階にたどり着き 残っていた食パン 梅干 味付け海苔
ろうそく等 思いつくままに リュックにつめ また下まで降りました
部屋の外の廊下 隙間を詰めていた コーキング剤がはずれ
下までストーンと丸見え
そこはほんの数センチなんですが 崩れそうで ちょっとスリル!
学校に帰ると 食糧配給の連絡
とりあえず 校庭に並んでいると 渡されたのは 小さなおにぎりが3個入ったパック
しかも それを2軒で分けるように・・・・・
2個をパックに入れたまま 隣の若い女性に渡し
1個を つまんで 部屋に帰り 息子に
「口開けて」
「なんやこれ?」
「食糧配給 終了!」
しかし 落ち着いているつもり 普段どおりだと 自分では思っていましたが
やはり 精神はHIになってたんですね
空腹を感じないんです 何日間かろくに 食べなくても
誰ですか!普段のたくわえが すごいからって言うのは
んーーーまぁ それもあるかも・・・・
する事も無く 時間だけが過ぎ ラジオは聞いていましたが
流れるニュースに代わり映えは無し・・・
夜になり下の息子をお供に 散歩開始
古いアパートの一階が潰れ 二階が道路に飛び出し通れないところがありました
国道(2号線)では 長距離トラックが 何台も渋滞中
まさか 43号線が崩れて走れなくなってるなんて その時はわかりませんでしてから
「ぎょうさん 車が並んでるねぇ」
国道沿いの 入院施設のある病院が 崩れ 道路にはみだした瓦礫を
サーチライトで照らしながら 排除作業中
酒屋の前に ダンボールが落ちているのを お土産に学校へ
どうして ダンボールがお土産か わかりますか??
ダンボールとか紙はすぐれた 断熱材なんですよ
避難した放送室は 薄いけれど絨毯がひいてありました
放送中音がしないようにでしょうね
でも その下は コンクリート 冷えが染みとおってきます
でも ダンボールをひくと 暖かーーーい!
お兄ちゃんが
「避難所に行くなら メモ残しといてくれ!どこいったか探した」と
文句ブーブーで現れ 無事家族集合!
これで 我が家の震災は終了!
どんな所 どんな時でも 家族が無事で 暖かく寝られたら それで十分です
教訓
ダンボールは優れた断熱材
普段から 酒屋 スーパー等ダンボールがあるところをチェック!
ろうそくは 一番太いものを用意する事
懐中電灯と違って ろうそくの明かりは 暖かい炎です
2008年1月16日水曜日
続きです 長いです^^;
私の部屋の外は 玄関
下駄箱が いえ 下駄箱の扉がはずれて中の靴が 散乱
主人が「危ないぞー ガラスが割れてるぞー」
私は 散乱している靴を適当にセットして 主人や息子の居るほうに
投げ込みました
私も スニーカーを履いて 家の中で土足
神戸が あんなひどい状態になってるなんて知ったのは
全て ずーーーっと後からで その時は
「揺れたねぇ」なんてのんきなもの
幸い 家族の誰も かすり傷一つ負ってませんでしたから
被害の大きかった お宅と違い
ある意味我が家の震災は これで終わりました
後残ってるのは 家の中の片付けだけ
細かな話をすると 長男は二段ベッドの上くらいの高さの
背の高いベッドに寝ていました
その横に 上下セパーレートになる箪笥がありました
その箪笥の上が ベッドのパイプに引っかかっていました
もし ベッドが 背の低いものだったら・・・・・
それに気づいたのは かなり後のこと
とっても落ち着いていたんですが 今になってみると
やはりあの時は 精神状態が 平常でなかったんですね
異常にハイテンションだったような気がします
ベランダ(南側)に出ると 外がかすんでいるんです
下の息子に「霧が出てるね」って話したことを覚えていますが
あれは 近所の家が壊れ
土壁などの 土ぼこり等だったんでしょうね
遠くに煙が 3本立っています
「あっ!火事だ」
それから 少しして 又ベランダに出ると 煙の数が 増えていました
ふと 下を見ると 電信柱が根元から折れて
電線が 引っ張られています
「わぁ 手抜き工事!」
ベランダから見える景色は 煙以外 特に変わりが無いんです
ですから 余計被害が無かったと 思ったんです
室内は もちろんめちゃくちゃ
なんと 冷蔵庫が 1mほど前に飛びだしています
扉を開けると 冷蔵庫の中は 空っぽ!
扉に 卵いれとか小さな棚がついていますよね
それも全て どこかに 吹っ飛んでいました
食器は飛び出し 電子レンジは 台から落っこちてます
我が家には 90×180cmの大きなテーブルがあります
天板は厚さ4cm とっても重いです
一人では 持ち上がらないくらい
その天板が 飛び上がり 足から はずれていました
まだ暗かったので 瓦礫?の中から 確かこのあたりと見当をつけ
ろうそくを見つけ出し つけたので 部屋の中に灯りが戻りました
(ろうそくは 一番太いのを 用意するほうが良いですよ
マッチも 一緒に
もちろん懐中電灯だけでも良いんですが なんと言えば良いんでしょう
ろうそくの あの炎が良いんです 懐中電灯と違い 暖かいんです
光が・・・・・)
親戚2軒に電話して 安否を確認しましたが
その後は 電話は かかりませんでした
(当時は 携帯は普及していませんでした)
そうこうしているうちに 少し明るくなり
ぽちらぽちらと 片づけを始めたんです
上の息子は すぐ近所のMcド Nルドでバイトしていたんですが
「この時間 早出の子が居るけどどうなったか 気になるから見てくる」と
出かけていきました
息子に後から聞いた話ですが 早出の子はその時
店の向かい側にある コンビニで朝食のパンか何かを買っていて
コンビニを出た所で 震災が起きたそうなんです
店は全面が ガラスの大きな壁になっていました
そのガラスが割れ 店が ゆっくりと 傾いていったそうです
数日後その壊れた店の中で 記念写真を撮ってきた「バカ」が誰かは
ご想像に任せます
こんなこと言ったら叱られるかも知れませんが
阪神大震災 季節と時間帯 良かったかも・・・・・・
と言うのは
明け方ですから 家族全員が 在宅
逆に その為家族全員が 亡くなられたお家もあります
とりあえず 家族の安否確認が 簡単だったこと
これが 平日の昼間だったら・・・・・
いちど 貴方のおうちを 考えてみてください
父親は 会社 最近では 母親も仕事
子供は学校(小、中、高。大それぞれ)では・・・
携帯があってもつながらない!
あなたなら どうなさいます?
「地震体験車」 体験することは 大切です
でもあの車に無い機能が 上下動です
直下型の場合 下から突き上げられます
ベッドごと 天井まで飛んだ!と言う話を聞いたことがあります
例えば 小学校だったら 子供は 机や椅子と一緒に 飛び上がります
どうなるんでしょう?? 想像すると恐ろしいです
会社勤めの父親 大きな揺れで 机と一緒に 窓から外へ・・・・?
どちらにしても 全員 帰宅困難者ですよねぇ
季節 冬
もちろん寒かったですよ コート着たまま寝ていました
体育館の中 1千人 二千人の人が 避難して暮らしていました
夏だったら どんなだったでしょう?
冬寒く 夏暑い体育館
暑さ 臭い 騒音 熱中症等 すごいものになると 思うんですが
水も 夏のほうが 必要ですよね
災害準備グッズ 無いより有ったほうが良いとは 思います
でも ぺしゃんこ 本当にぺしゃんこになった家を見ると
用意していても 取り出せないしぃ って思う私は・・・・・
震災後 いろんなことが TVで放映されていましたが
それを下の息子と見ながら いろいろ 突っ込んでいたんです
瓦礫に埋もれた時 少しの息で 吹ける笛
その笛 どうやって 探し出して吹くんだろう??
瓦礫にはさまれ 身動きが出来ない時は
寝るときは 笛をくわえて寝る??
地震がきたら ガスの元栓を締め 扉に隙間を作り 云々
そんなことが のんびり出来るくらいの地震なら やる必要なし
大したこと無いでぇ
2階建ての家の方が 下が心配で階段を下りようとしたけど
階段が 波打っていて とてもじゃないけれど 下りられなかった!
そう言っていましたよ
そういえば 先日 TVで ガスの栓は 揺れが収まってからじゃないと
かけているお鍋などの熱湯を浴びるから 危険です って
o(>▽<)o ウキャキャウキャキャ
とうの昔に お鍋は ガス台から ふっとんでまーーーーす
正直 懐中電灯は 無くてもナンとかなるかも
と言うのは 皆さん 月明かりの明るさ 忘れてませんか?
あたり一面停電で 真っ暗 でも 外に出ると 結構明るいですよ
新月の時は 知りませんよ
薬は 常備薬以外 鎮痛剤(風邪の熱対策用)等も 忘れないでね
それと一番大事なのは ご近所づきあい
いざとなった時は 近所同士助け合うのが 一番
震災直後 一番最初に 救助の手を差し伸べてくれるのも ご近所さん
そうでしょう
隣の方が 瓦礫の下になっていたら 助けようと思いますでしょ
えっ!あいつは 今すぐ 埋めてしまいたい?(*´▽`*) プッ
そんなんしらんがな
どうぞ ご近所さんとは 仲良く 仲良く
下駄箱が いえ 下駄箱の扉がはずれて中の靴が 散乱
主人が「危ないぞー ガラスが割れてるぞー」
私は 散乱している靴を適当にセットして 主人や息子の居るほうに
投げ込みました
私も スニーカーを履いて 家の中で土足
神戸が あんなひどい状態になってるなんて知ったのは
全て ずーーーっと後からで その時は
「揺れたねぇ」なんてのんきなもの
幸い 家族の誰も かすり傷一つ負ってませんでしたから
被害の大きかった お宅と違い
ある意味我が家の震災は これで終わりました
後残ってるのは 家の中の片付けだけ
細かな話をすると 長男は二段ベッドの上くらいの高さの
背の高いベッドに寝ていました
その横に 上下セパーレートになる箪笥がありました
その箪笥の上が ベッドのパイプに引っかかっていました
もし ベッドが 背の低いものだったら・・・・・
それに気づいたのは かなり後のこと
とっても落ち着いていたんですが 今になってみると
やはりあの時は 精神状態が 平常でなかったんですね
異常にハイテンションだったような気がします
ベランダ(南側)に出ると 外がかすんでいるんです
下の息子に「霧が出てるね」って話したことを覚えていますが
あれは 近所の家が壊れ
土壁などの 土ぼこり等だったんでしょうね
遠くに煙が 3本立っています
「あっ!火事だ」
それから 少しして 又ベランダに出ると 煙の数が 増えていました
ふと 下を見ると 電信柱が根元から折れて
電線が 引っ張られています
「わぁ 手抜き工事!」
ベランダから見える景色は 煙以外 特に変わりが無いんです
ですから 余計被害が無かったと 思ったんです
室内は もちろんめちゃくちゃ
なんと 冷蔵庫が 1mほど前に飛びだしています
扉を開けると 冷蔵庫の中は 空っぽ!
扉に 卵いれとか小さな棚がついていますよね
それも全て どこかに 吹っ飛んでいました
食器は飛び出し 電子レンジは 台から落っこちてます
我が家には 90×180cmの大きなテーブルがあります
天板は厚さ4cm とっても重いです
一人では 持ち上がらないくらい
その天板が 飛び上がり 足から はずれていました
まだ暗かったので 瓦礫?の中から 確かこのあたりと見当をつけ
ろうそくを見つけ出し つけたので 部屋の中に灯りが戻りました
(ろうそくは 一番太いのを 用意するほうが良いですよ
マッチも 一緒に
もちろん懐中電灯だけでも良いんですが なんと言えば良いんでしょう
ろうそくの あの炎が良いんです 懐中電灯と違い 暖かいんです
光が・・・・・)
親戚2軒に電話して 安否を確認しましたが
その後は 電話は かかりませんでした
(当時は 携帯は普及していませんでした)
そうこうしているうちに 少し明るくなり
ぽちらぽちらと 片づけを始めたんです
上の息子は すぐ近所のMcド Nルドでバイトしていたんですが
「この時間 早出の子が居るけどどうなったか 気になるから見てくる」と
出かけていきました
息子に後から聞いた話ですが 早出の子はその時
店の向かい側にある コンビニで朝食のパンか何かを買っていて
コンビニを出た所で 震災が起きたそうなんです
店は全面が ガラスの大きな壁になっていました
そのガラスが割れ 店が ゆっくりと 傾いていったそうです
数日後その壊れた店の中で 記念写真を撮ってきた「バカ」が誰かは
ご想像に任せます
こんなこと言ったら叱られるかも知れませんが
阪神大震災 季節と時間帯 良かったかも・・・・・・
と言うのは
明け方ですから 家族全員が 在宅
逆に その為家族全員が 亡くなられたお家もあります
とりあえず 家族の安否確認が 簡単だったこと
これが 平日の昼間だったら・・・・・
いちど 貴方のおうちを 考えてみてください
父親は 会社 最近では 母親も仕事
子供は学校(小、中、高。大それぞれ)では・・・
携帯があってもつながらない!
あなたなら どうなさいます?
「地震体験車」 体験することは 大切です
でもあの車に無い機能が 上下動です
直下型の場合 下から突き上げられます
ベッドごと 天井まで飛んだ!と言う話を聞いたことがあります
例えば 小学校だったら 子供は 机や椅子と一緒に 飛び上がります
どうなるんでしょう?? 想像すると恐ろしいです
会社勤めの父親 大きな揺れで 机と一緒に 窓から外へ・・・・?
どちらにしても 全員 帰宅困難者ですよねぇ
季節 冬
もちろん寒かったですよ コート着たまま寝ていました
体育館の中 1千人 二千人の人が 避難して暮らしていました
夏だったら どんなだったでしょう?
冬寒く 夏暑い体育館
暑さ 臭い 騒音 熱中症等 すごいものになると 思うんですが
水も 夏のほうが 必要ですよね
災害準備グッズ 無いより有ったほうが良いとは 思います
でも ぺしゃんこ 本当にぺしゃんこになった家を見ると
用意していても 取り出せないしぃ って思う私は・・・・・
震災後 いろんなことが TVで放映されていましたが
それを下の息子と見ながら いろいろ 突っ込んでいたんです
瓦礫に埋もれた時 少しの息で 吹ける笛
その笛 どうやって 探し出して吹くんだろう??
瓦礫にはさまれ 身動きが出来ない時は
寝るときは 笛をくわえて寝る??
地震がきたら ガスの元栓を締め 扉に隙間を作り 云々
そんなことが のんびり出来るくらいの地震なら やる必要なし
大したこと無いでぇ
2階建ての家の方が 下が心配で階段を下りようとしたけど
階段が 波打っていて とてもじゃないけれど 下りられなかった!
そう言っていましたよ
そういえば 先日 TVで ガスの栓は 揺れが収まってからじゃないと
かけているお鍋などの熱湯を浴びるから 危険です って
o(>▽<)o ウキャキャウキャキャ
とうの昔に お鍋は ガス台から ふっとんでまーーーーす
正直 懐中電灯は 無くてもナンとかなるかも
と言うのは 皆さん 月明かりの明るさ 忘れてませんか?
あたり一面停電で 真っ暗 でも 外に出ると 結構明るいですよ
新月の時は 知りませんよ
薬は 常備薬以外 鎮痛剤(風邪の熱対策用)等も 忘れないでね
それと一番大事なのは ご近所づきあい
いざとなった時は 近所同士助け合うのが 一番
震災直後 一番最初に 救助の手を差し伸べてくれるのも ご近所さん
そうでしょう
隣の方が 瓦礫の下になっていたら 助けようと思いますでしょ
えっ!あいつは 今すぐ 埋めてしまいたい?(*´▽`*) プッ
そんなんしらんがな
どうぞ ご近所さんとは 仲良く 仲良く
2008年1月14日月曜日
阪神大震災から早13年
先日水仙の花を見かけました
昔は水仙の花は好きだったのですが 最近では震災を思い出す悲しい花になりました
あの日から もう十三年も経ったなんて・・・・・
下記の話は他の場所で書いた話なのですが
どうしてももう一度 載せてみたくなりました
私の阪神大震災体験記です
何の被害も無かった(家族が全員 かすり傷も負ってなかったので)
私でさえ 少しの振動にビビリまくり 水仙の花に悲しみを覚え
震災時は 花の無い時期だったので よく水仙の花が供えられていたんです
小さな木切れに 傍にあった石ででも書いたような
「ここに○○が まだ埋まっています」とか
「ここで××が 亡くなりました」
その横に 水仙の花が・・・・・・・・
そのとき住んでいたマンションの傍の家も全壊
今では その家があった場所も定かでは無くなりました
歩いていると その家があったのが 嘘のような気がします
鉄筋コンクリートのマンション住まいでしたから
家具は倒れ 食器は壊れ でしたが家そのものは 大丈夫だったんです
少なくとも室内はね
だから まさか古い日本家屋が ペシャンコになってるなんて
その時は考えもしませんでしたから
家がね 真ん中から 半分に裂けてるんです
それを見ても 私の頭は 理解不能!
「この家・・・・・????????」
誰かが 屋根に手を掛け 左右に引っ張ったみたい
“V”の字型に 裂けてるんですから
普通 そんな状態にはならないでしょう
常識を飛び越えてしまった状態に会うと 脳みそ君思考停止状態に
なってしまうんですね
「ゴジラの襲来?? 撮影???」
後で考えると 馬鹿な話ですが その時はそんなことを つい思ってしまったんですよ
それくらい 信じられない状況だったんです
私は 阪神大震災のとき 神戸市東灘区に 住んでいました
我が家は 被害をこうむっていません
なぜなら 家具食器は 壊れても
家族全員 かすり傷も負ってないからです
いろんな方が 震災の経験を 著していらっしゃいますが
私流 「震災の記あれこれ」を 書いてみようかなと・・・・
参考になることが あるやも知れませんので
まず 我が家の家族は 主人 息子二人 私の4人家族です
10階建てマンションの 8階に住んでいました
何時ごろでしょう
「ゴーーーー」と言う 地鳴りの音に 目が覚めました
地鳴りなんて 今まで聞いたことも無いのに
「地鳴り! 地震!」寝ぼけ眼で そう思ったのは なぜ?
(これだけは いまだに 謎です)
「地震!」って思った瞬間 ぐらっ
私が知っている揺れはここまで
後は 音の記憶だけ
それと左右にあった本棚の本が いっせいに体の上に・・・・
「ん?私 本にうずもれて 死ぬ?」なんて
のんきなこと 考えていました
説明するのに 困りますが
ガシャン×1億+ドシャン×一億+パリン+ガチャンです
パリンとガチャンは コップや食器の割れた音
後の「ガシャン×1億+ドシャン×一億」は
その時は 判りませんでした
建物本体に 渡り廊下がありその先に
小さな一棟の8階建てがありました
そのコンクリート製の 渡り廊下が落下した音だったんです
本体側から 切り離したように 小さな棟にぶら下がってるんです
そしてその棟は 廊下とは 反対方向に傾いて
落下した廊下とバランスをとって ひっくり返らずに済んでいました
私の震災は 音に始まり音で終わりました
ベランダのブラインドが きっちり閉まり 部屋の中は真っ暗
手のひらを 目の前にかざしても見えません
起き上がろう でも 起き上がれない どうしよう?
布団の中を もそもそはって ともかく 立ち上がれるところまで進みました
その間 主人が「おーい!大丈夫か?」の声
私 真っ暗で分けわかんない状態
(大丈夫かどうか 真っ暗で わかるかぁ)と私の心の声
入り口の邪魔者を ともかく力任せに 押しのけやっと部屋の外へ
昔は水仙の花は好きだったのですが 最近では震災を思い出す悲しい花になりました
あの日から もう十三年も経ったなんて・・・・・
下記の話は他の場所で書いた話なのですが
どうしてももう一度 載せてみたくなりました
私の阪神大震災体験記です
何の被害も無かった(家族が全員 かすり傷も負ってなかったので)
私でさえ 少しの振動にビビリまくり 水仙の花に悲しみを覚え
震災時は 花の無い時期だったので よく水仙の花が供えられていたんです
小さな木切れに 傍にあった石ででも書いたような
「ここに○○が まだ埋まっています」とか
「ここで××が 亡くなりました」
その横に 水仙の花が・・・・・・・・
そのとき住んでいたマンションの傍の家も全壊
今では その家があった場所も定かでは無くなりました
歩いていると その家があったのが 嘘のような気がします
鉄筋コンクリートのマンション住まいでしたから
家具は倒れ 食器は壊れ でしたが家そのものは 大丈夫だったんです
少なくとも室内はね
だから まさか古い日本家屋が ペシャンコになってるなんて
その時は考えもしませんでしたから
家がね 真ん中から 半分に裂けてるんです
それを見ても 私の頭は 理解不能!
「この家・・・・・????????」
誰かが 屋根に手を掛け 左右に引っ張ったみたい
“V”の字型に 裂けてるんですから
普通 そんな状態にはならないでしょう
常識を飛び越えてしまった状態に会うと 脳みそ君思考停止状態に
なってしまうんですね
「ゴジラの襲来?? 撮影???」
後で考えると 馬鹿な話ですが その時はそんなことを つい思ってしまったんですよ
それくらい 信じられない状況だったんです
私は 阪神大震災のとき 神戸市東灘区に 住んでいました
我が家は 被害をこうむっていません
なぜなら 家具食器は 壊れても
家族全員 かすり傷も負ってないからです
いろんな方が 震災の経験を 著していらっしゃいますが
私流 「震災の記あれこれ」を 書いてみようかなと・・・・
参考になることが あるやも知れませんので
まず 我が家の家族は 主人 息子二人 私の4人家族です
10階建てマンションの 8階に住んでいました
何時ごろでしょう
「ゴーーーー」と言う 地鳴りの音に 目が覚めました
地鳴りなんて 今まで聞いたことも無いのに
「地鳴り! 地震!」寝ぼけ眼で そう思ったのは なぜ?
(これだけは いまだに 謎です)
「地震!」って思った瞬間 ぐらっ
私が知っている揺れはここまで
後は 音の記憶だけ
それと左右にあった本棚の本が いっせいに体の上に・・・・
「ん?私 本にうずもれて 死ぬ?」なんて
のんきなこと 考えていました
説明するのに 困りますが
ガシャン×1億+ドシャン×一億+パリン+ガチャンです
パリンとガチャンは コップや食器の割れた音
後の「ガシャン×1億+ドシャン×一億」は
その時は 判りませんでした
建物本体に 渡り廊下がありその先に
小さな一棟の8階建てがありました
そのコンクリート製の 渡り廊下が落下した音だったんです
本体側から 切り離したように 小さな棟にぶら下がってるんです
そしてその棟は 廊下とは 反対方向に傾いて
落下した廊下とバランスをとって ひっくり返らずに済んでいました
私の震災は 音に始まり音で終わりました
ベランダのブラインドが きっちり閉まり 部屋の中は真っ暗
手のひらを 目の前にかざしても見えません
起き上がろう でも 起き上がれない どうしよう?
布団の中を もそもそはって ともかく 立ち上がれるところまで進みました
その間 主人が「おーい!大丈夫か?」の声
私 真っ暗で分けわかんない状態
(大丈夫かどうか 真っ暗で わかるかぁ)と私の心の声
入り口の邪魔者を ともかく力任せに 押しのけやっと部屋の外へ
2008年1月5日土曜日
お正月・・・・・・
最近はお正月が なくなりました
ダ~~~レも お年玉くれないし
昔のテレビ 新年になると 新年らしいCM流していましたが
最近は 一年中同じCMですよねぇ
町の中でも 髪を結って着物を着た若い女性などが沢山居ましたが
そんな姿も減りました
これも 時代の流れなのでしょうが バーチャンは 悲しいp(´⌒`。q) グスン
お正月のTVって 芸が無いねぇ
あっちゃこっちゃで 同じタレントが 同じことしてる
芸の無いタレントは 裸!!(しかも汚~~~~い)
「昔はよかった」とは 言いませんが
TV局の人たち もう少し 頭使ってアイディア出して欲しいな(^0_0^)
ダ~~~レも お年玉くれないし
昔のテレビ 新年になると 新年らしいCM流していましたが
最近は 一年中同じCMですよねぇ
町の中でも 髪を結って着物を着た若い女性などが沢山居ましたが
そんな姿も減りました
これも 時代の流れなのでしょうが バーチャンは 悲しいp(´⌒`。q) グスン
お正月のTVって 芸が無いねぇ
あっちゃこっちゃで 同じタレントが 同じことしてる
芸の無いタレントは 裸!!(しかも汚~~~~い)
「昔はよかった」とは 言いませんが
TV局の人たち もう少し 頭使ってアイディア出して欲しいな(^0_0^)
2008年1月2日水曜日
新年おめでとうございます
2007年12月31日月曜日
2007年12月30日日曜日
2007年12月29日土曜日
2007年12月27日木曜日
注連縄
もう師走です
お正月も目の前
注連縄を買い求めていらっしゃると思いますが
こんな注連縄はいかがですか?(^0_0^)
姫路市にある恵美酒神社の隋神門と本殿の前に張られている注連縄です
注連縄の左のほうには 鎌 右手には梅鉢の紋が 付いています
このお宮さんは恵美酒(戎)さんを祭っていますが
後に 天満神(菅原道真)も 合祀されています
それで 梅鉢の紋が付いているんですね
違い鎌紋は菅原道真公が通る道の草を 住人が鎌で刈ったという伝承に由来するんだそうです
お宮さんに行くと 偶に鎌紋見かけるんですよね
でも 理由はそれぞれ あるようですよ
更に 本殿の前の注連縄には 真ん中に松竹梅も付いているんです
しかしこの細工 見事ですよねぇ!!!
お正月も目の前
注連縄を買い求めていらっしゃると思いますが
こんな注連縄はいかがですか?(^0_0^)
姫路市にある恵美酒神社の隋神門と本殿の前に張られている注連縄です
注連縄の左のほうには 鎌 右手には梅鉢の紋が 付いています
このお宮さんは恵美酒(戎)さんを祭っていますが
後に 天満神(菅原道真)も 合祀されています
それで 梅鉢の紋が付いているんですね
違い鎌紋は菅原道真公が通る道の草を 住人が鎌で刈ったという伝承に由来するんだそうです
お宮さんに行くと 偶に鎌紋見かけるんですよね
でも 理由はそれぞれ あるようですよ
更に 本殿の前の注連縄には 真ん中に松竹梅も付いているんです
しかしこの細工 見事ですよねぇ!!!
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